ここで重要になるのは、それらの描写が入谷家という特定の家を超え出た普遍的な家の姿として成立しているか否かである。そうでなければ「お山の家」は、入 谷家の家としてだけ閉塞してしまう。では家というきわめて個人的なイメージを、普遍的なものへと昇華させるものとは何か。逆説的だが、それは個人的なもの の強度を高めることによって達成されると私は考える。すなわち、「これは私の家特有のものである」という要素を排除するのではなく突き詰めること。排除は 一見普遍的な家のイメージへと近づく手段に見えるが、そうして成立するものはおそらく、冷たく、寂しいものでしかない。展示は、入谷もまたそう考えている のではないかと思わせるものになっている。
たとえば庭に咲く桜を外から捉えた《さくらさま》(color pencil、105.0×75.0cm 、2008年)の下には、夫婦ネズミのお土産品が置かれている。入谷の両親が昔購入したもので、自宅にあるものだ。あるいは中庭に目をやれば、二羽の鶴が いることに気づくだろう。その鶴は、《シャッタースポット》(color pencil、210.0×149.0cm 、四点セット、2008年)に描かれている鶴にほかならない。このように会場には入谷の作品ではないものが散見し、しかしそれが作品と呼応し、展覧会の重 要な構成要素になっていた。「私の家には、ネズミの置物もなければ鶴の像もない。だが、似たようなものならある」。鑑賞者にそう思わせるのだ。
個人的な記憶を遡ることを許していただきたいが、色鉛筆は私に幼少期の、お絵描きの時間を思い出させる。水彩でもなければ油絵でもなく、幼い私は色鉛筆 やクレヨンを握りしめ、画用紙の上に絵らしきものを描いていた。いや、塗りたくっていた。入谷の作品が子供の絵のようだと言いたいのではない。そこには画 面を構成しようとする意思とテクニックがあり、それは子供の絵とは対極にあるものだ。ただ、サイケデリックな色彩に加え色鉛筆が生み出す質感は、入谷の確 かな構成とは裏腹に画面を不安定にさせる。入谷がそもそもの出自とする、シルクスクリーンプリントではこうはいかない。その生々しさが、茫漠とした、家の 記憶を立ち上がらせる一助となっているのである。モチーフと画材の幸福な結実がここにはある。