それゆえそれらは、あたかも手をまったく加えていない、元々の状態がそうであるかのように見えてしまうこともある。つまりキャプションを見なければ、作家 の説明を受けなければ、《ヌカボール》、《埃の塔》は米ぬかでも埃でもなく岩石のようであり、《Untitled 8》は農具以外の何ものでもないように見えてしまうのだ。このような言わば「説明されなければ知りえない」事実が作品を鑑賞するにあたり前提にあることに 対して、もしくは前提にあるように見えることに対して、否定的な意見もあるかもしれない。「知らなければその作品を充分に鑑賞することができないのではな いか」ということである。しかし、西奥の作品はその事実を知らなければ鑑賞できないわけではもちろんない。事前に説明を受けている私がこのようなことを 言っても説得力がないかもしれないが、そのような仕掛けが展示には施されており、なにより作品そのものの物静かな佇まいは、ただその物体を見ることを鑑賞 者に求めていたのではなかったか。
左:《Untitled 2》 右:《Untitled 6》(ともに2009年 / 古床材・鉄)
《Untitled 8》が壁面の比較的高所に展示されていたのは、神棚が地べたではなく高所に設置されていることと同様、そのものから神聖性を読み取ってのことである。 《RAIN 》(高知県谷合地区の赤土、2009年)は円形に象った赤土の一部分に油を垂らして雨のイメージを具現化した作品だが、それは油であることを知らされない ことでむしろ水のイメージを私たちに呼び起こして止まない。鉄に古床材を組み合わせた《Untitled 2》(2009年)から《Untitled 9》(〃)の五作品も、古茶けた木材の一部に施された新品然とするための加工とのコンストラストと黒光りする鉄との対比はエッジが効いており秀逸である。 西奥の今回の出品作品は基本的には、こうして言葉にすることを必要としない、まさしく「見ための手ざわり」を鑑賞者に想像させる妙を楽しむものであった。 だが私たちは説明されることに慣れすぎており、自分の目だけを信じて作品と相対することについて不安を抱えているから、中々そうはいかないのかもしれな い。「純粋」に、もしくは「素直」に見ることがいかに困難か?しかし西奥の作品は、その困難さを軽やかに剥ぎ取り私たちの目の前に提示されていた。
左:《Untitled 7》 中:《Untitled 3》 右:《Untitled 4》(すべて2009年 / 古床材・鉄)
左上:《卵》(2009年 / 卵の殻)右上:拡大画像