「 蒔かれた種について 」 泉 洋平 (インスタレーション)
2012年2月1日 (水) ~ 19日 (日) [ 会期中 2月6日, 13日 月曜閉廊 ]
「蒔かれた種について」 に寄せて
人は月を眺めるとき、その満ち欠けに地球のリズム、人間の体内の波長を感じ、「見えない」部分に思いを馳せるよりも「見えている」姿の有り様に感じ入る。月そのものの大きさや形は変わっていないのに、満月を眺める気持ちと三日月を見るそれは異なる。勝手ながら、人はそうして移り変わる事象に目と心を惹かれ、ものを思う生き物なのだ。身近な天体である月や太陽、その周囲を巡る惑星を除けば、夜空に瞬く星のほとんどは何千・何万光年という遥か先に位置するものばかりであり、即ちその光そのものが、何千・何万年前の古の時代の光跡に過ぎない。にも関わらず私達はそれらを眼前に実在する物事として受け止め、微かな色や瞬きを同じ瞬間のものとして感じ、その存在を疑わない。
人はまた、見えているもの以外にも想像を用いて存在を生み出すことが出来る。小説を読めば限られた文字数の遥か遠くまで頭の中で景色を思い、書かれていない行間を読む。昔の旅先の写真を見返せば、おそらくは当時の記憶が薄れていたとしても、自分にとって都合の良い事をあたかも現実に起こったことのように振り返ることも出来る。そして一つとして同じ顔や体を持たない人間同士、互いに未知の存在と対峙する時は、今までの経験に基づいて相手の性格や経歴などを瞬時に想像し、接触の機会を窺うことが可能である。それは人間に限らず、視覚を頼りに生きる生き物全てにある程度は当てはまる事かもしれないが、おそらくは人間ほど想像力を駆使して生きている生物は他に無いだろう。
泉洋平はそもそも、京都精華大学及び大学院の「洋画」専攻を経て、作家への道をスタートしている。実際にその当時は油絵の技法で作品を制作し、2009年当時までは平面作品を通じて視覚にまつわる気づきや問題を提起してきた。しかしその後、彼は「糸」という素材に出会い、一気に画面を離れて行く事になる。だが彼がその後に見せることになるのは、まさに彼が追い求めて来た視覚表現の最新形としてのインスタレーションであり、それはどうしてもキャンバスやパネルといった平面的な支持体の上に絵具を用いただけでは表現しえなかったものである。つまり彼は絵画を捨てて空間表現を選択した訳ではなく、彼の目指す視覚表現がこのような立体的、空間的な装置設営によって実現出来る様になったと言うべきであろう。
彼はニュートロンでは2008年に当時の京都店内ギャラリー(カフェと併設の舞台型空間)の細部に殊更に注目してわざわざ実物そっくりに描いた「絵画」を会場内に設置し、視覚の気づきとそれに伴う発見の面白さを提示した。続く2010年(同会場)には上述の「糸」を用いた作品として、会場内に二つの立体装置を設営した。それぞれが張り巡らせた糸に着色されている部分を見ると、月のような存在が浮かび上がって見える仕掛けである。さりとて月はそこに存在しない。月どころか、存在するのは糸であり、糸と糸との間は空間が見えるだけである。にも関わらず、限られた線(着色された部分)の僅かな軌跡を辿るだけで、私達はそこに月を見出し、あるいはもっと別の何かに思いを馳せる。それが果たして本当に月をイメージして作られた装置かどうかも、もはや関係無い。その展示以後も彼は自発的にアトリエやギャラリーでの発表を重ね、いよいよ東京に初登場となる。
トリックアートのような面白さと、視覚を慎重に考察して生まれたアイデア。決して奇をてらうことだけが彼の目的ではなく、事実ここ最近の手法はすっかり定着して来ている。しかしながら、彼の試行錯誤は終わる事はない。糸という極めてシンプルな素材を扱い続けながら、彼の作品はマイナーチェンジを繰り返し、確実に進化しているのである。
見れば見る程、そこには何も無い。しかし見ようとすれば何かを見出せる。全ての存在とはもしかすると、彼の操る糸の見え方のようなものなのだろうか。だとしても私達は想像を捨てず、何かを見出そうとする方を選ぶのだろう。何故ならそれが人間という生き物だから。
gallery neutron 代表 石橋圭吾 |