「 あなたとわたしのこの世界 」 (平面)
2012年4月4日 (水) ~ 22日 (日) [ 会期中 4月9日, 16日 月曜閉廊 ]
「あなたとわたしのこの世界」 に寄せて
寺島みどりは旅をする画家である。- そう書くと、ほとんどの人は放浪する山下清のような作家を連想するかも知れないが、そうではない。 もちろん寺島だって実際に生活の場を離れて旅をすることもあれば、最近では滞在制作という形で韓国にも行っている。 だが「旅をする画家」たる所以は実際にどこに行くかという次元の話ではなく、あくまで絵画面に向かって旅をする、あるいは絵画面の中で旅を続けている、という意味である。
遥かなる地平線に思いを馳せて絵画作品としての初期の代表的なシリーズを描いていた2000年代の前半、作品のタイトルには未だ見ぬ土地の名前が付けられたりしたが、実際には訪れたことの無いそれらの土地をリアルに想起して/させるために描かれたものではなく、自分が常に遥か世界の手前の地点に居るからこそ、想像を無限大に広げられることを感じさせる一連の作品達であった。 色彩のコントラストによってはっきりと隔てられた天と地は、しかし絶対的な境界線ではなく、天も地も私たちの住む世界においてはどこまでも繋がっており、だからこそ私たちは空想の旅を続ける事が出来ることを、示すものでもあったろう。インターネットで世界の有様が激変した1990年代以後に共有されることとなったコンパクトな世界観を反映するものとしても、今更ながら寺島の当時からの試みは見過ごせない。
そして00年代後半、2007年頃から次第に画面は天地の境界線から離れ、目の前に俄に生い茂る枝のような、あるいは花のような、時に降りしきる雨のような有機的なフォルムの線(線描ではなく筆致としての線)が登場する。 やがてそれは実験的に繰り返し姿を変化させながら、2009年から2010年にかけての大阪、京都、東京、岡山など各地での展覧会に発展し、それぞれにおいて猛烈な制作スピードで大作が出展され、加速度的に寺島の新スタイルが次第に顕(あらわ)になっていった。その過程を当時の展覧会タイトル「見えていた風景」という言葉が端的に表現していたと考えられる。すなわち、作家の脳内に焼き付いている(いた)であろう数多の事象・出来事が抽象(色彩やフォルムという記号的な要素に分解されて)としてコラージュのように描かれたこのシリーズは、鑑賞者にとってもどこかで「見えていた」かもしれない光景、すなわち感覚のピースのコラージュでもあったはずなのだ。
そのシリーズのおそらくは終着点であり、今に至る新たな端緒となった展覧会が、「見えていた背景 -記憶の森-」@京都芸術センター北ギャラリー(公募・京都芸術センター2010/審査員=河瀬直美)である。ここでは何と、四角四面のホワイトキューブとしての大きなスペースに支持体としての紙を張り巡らせ、公開制作の形をとって会期中に寺島が絵を描き続け、鑑賞者はその過程をその都度伺い見ながらも、実は描いたあとからも別の要素が描き足され、変化し続けた「作品」を瞬間的に体験していたことになる。アグレッシブな、という意味ではなく本質的に動き・変化し続けるものとしての寺島作品は、ここにきて制作そのものを「表現」と呼べる可能性を一気に発露した。 そして、その後に韓国でのレジデンスを行った上で公開制作の確信を得て、今回の東京展でも一部(開催序盤の短期間ではあるが)公開制作を行う。いわゆるライブペインティングとしての要素を持ちながらも、じっくりと長時間に渡って風景が立ち上がっては隠れ、再び別のものとして現れる様を目撃するのはスリリングで幸福な瞬間の連続でもある。
そして「3.11」以後、寺島もまた数々の葛藤と課題に直面し続けながら模索を続け、数年前に体験した富士登山での記憶を基に「奥庭」というテーマと向きあい、本当に自分が見たい、見るべき世界の一端を追い求めている。 草木に覆われ、こつ然と姿を現す池のさらに奥に何が存在するのだろう。 極めて暗示的でありながら、私たちの住むこの世界の変化をダイレクトに吸収して具現化される寺島絵画は、ここに来て核心へと近づきつつあるように思われる。 全ての景色が繋がっているのであれば、楽園へ向かう道もまた、この世界の至る所にあるはずだ。 だからこそ、「あなたとわたしのこの世界」は一つである。
gallery neutron 代表 石橋圭吾 |