「 Boundary 」 酒井龍一 (平面 / 日本画)
2012年5月30日 (水) ~ 6月17日 (日) [ 会期中 6月4日, 11日 月曜閉廊 ]
「Boundary」 に寄せて
昨年の9月から、酒井龍一は京都に居を移して制作に明け暮れている。 そもそもは佐賀県に生まれ広島で学び、画家としての志をもって東京に出て来たのが数年前。 東京で一年を過ごした後に京都に引っ越した理由は他でもない、制作環境を得る為であった。 neutronが昨年7月から開設した本拠地「FACTORY」の制作アトリエに真っ先に飛びついて、日夜問わず制作に没頭しているのがまさに彼その人である。
そんな彼の描く作品は年代を追うごとに趣と質感を変え、進化の過程にある。 それには彼が何処に身を置いているか、存在し得るかという事が最も深く関わっている。広島あるいは生まれ故郷の佐賀に留まっている間に見えなかった景色が、東京ではめくるめく光景として眼前に広がっていた。いざ身一つで大都市に乗り込んだ際、おそらくは彼が覚えたのは途方もない寄る辺無さと焦燥感であったのではないだろうか。彼が東京に行く頃に描いていた代表的なトンネルのシリーズでは、暗い穴のその先に希望に満ちた明るい光が見えていたのだが、果たしてそれは彼の旅路の先に見られただろうか。 東京で彼が親近感を覚えたのは暗がりにぽつりぽつりと点在し、24時間絶え間なく煌煌とした照明をたたえるガソリンスタンドであり、ファミリーレストランであり、車窓の灯りであり、そこに疲れきってはいるが確かに存在する人間であった。気づけば彼の意識は、従来の日の光の下に描いてきた白昼夢のような出来事から、次第に都会の夜の帳の中に見え隠れする人間模様へと移って行く。
散々飲み遊んだ後に渋谷の駅前で潰れて座り込んでいる姿を目撃されたという話も、一度や二度では無かったろう。しかしそんな彼の目はそのとき、決してアルコールで濁ってはいなかった。なぜなら彼はそのときにこそ、行き交う群衆の中に見るべき個を見出そうと目を走らせ、しかしその都度見失った。 彼にとって同じ様な表情を浮かべ、一様な出で立ちと振る舞いを見せる「匿名の」、「不特定多数」の人間しか見いだせなかったのである。何か大きな意思の下に集まり、素性を隠して蠢いているかのような存在の数々。それを「人間」と呼ぶには明らかで強い違和感を感じた彼は、絵の中のそれぞれに仮面を被せて描くようになる。お馴染みのマスクシリーズの誕生は、彼の痛切な孤独感と、その中でじっと目を凝らした先に見えた光景の産物である。
その後彼は人間の本質と表層をテーマに深く潜ませながら、背景に黒を好んで用いるように傾倒していく。全てがかりそめの、匿名のシーンのように描かれる中で、やがてモチーフとなる登場人物達のマスクは際立ち、真の存在であるはずの素顔を見せぬままに多くの作品が描かれて行く。彼の好む映画のワンシーンを基に着想を得た食卓を囲む絵(「晩餐」、「Family」)では家族という究極の他者を不穏に描き、自画像においては自分の顔にすらマスクを被せてみせた。その後京都に移り住んで以降に描かれた数々の作品は、もはや都会の喧噪からも離れた概念上の空間に存在する意識を表すようになる。 すなわち彼が現代において見出し描こうとする「幽玄」は、物理的な彼の所在地の変遷を経て、もはや作家の脳内にはっきりと像を結ぶにまで至ったのである。 その画面にはもはや何処でもない、限りなく近くて遠い場所に人間であるはずの存在が物憂げに、見過ごせない佇まいで描かれている。
このシーズンに都庁を含む三会場においてそれぞれ異なる発表を行なうための制作は未だ続いているが、全てを網羅してもなお彼の可能性は底知れないと感じる事が出来る。 酒井龍一の旅に終わりは無く、彼が行かんとする夢幻の境地は現実との狭間で、否応無く筆を持つ事になるだろう。 次なる制作の題材としてSNS(ソーシャルネットワークサービス)を通じてモデルを呼びかけているという、彼の今後の企みが今から楽しみでならない。
gallery neutron 代表 石橋圭吾 |