「 ツキ ノ イリエ 」 稲富淳輔 (陶 / 平面)
2012年7月11日 (水) ~ 29日 (日) [ 会期中 7月16日, 23日 月曜閉廊 ]
「ツキ ノ イリエ」 に寄せて
毎年コンスタントに個展を重ねる稲富淳輔は、巷の若手陶芸ムーブメントとは一線を画しながらも、先日は東京で開催された陶芸コンテスト「現代茶湯アワード 弐〇一弐」(一品更屋主催)のダンディー部門で銀賞を獲得するなど、次第に陶芸分野でも注目を集めている。
もとはと言えば陶を基軸として制作している作家なのだから、陶芸というジャンルで脚光を浴びても不思議ではないのだが、彼の独自の世界観を反映する制作の流れを追っていくと、案外そうとも言い切れない。 彼は陶土を用いて「うつわ」を作る事が制作の基本となっているが、実はもう一つの軸として、主にオイルパステルを用いての平面作品がある。 そこに描かれるのは非常にシンプルであるが力強い筆致でシルエットを強調された「うつわ」達であり、一点一点が一枚の絵画として成立し、まるで三次元の物質である陶作品と対を成すように、二次元ならではの魅力を誇っている。 それら二つの表現手法によって、稲富は「うつわ」としての存在を浮き彫りにし、私達に切々と説いているようである。
「うつわ」とあえて平仮名で書くのも理由がある。 彼は今でこそ陶器ショップに並ぶような実用性のある「器」を制作もしているが、もともとは(つい数年前まで)そのような実用性を排除し、「使えない器」つまりはオブジェとしての作品を制作していたのである。 もちろんそこに作家の意図があっての事であるから、今に至る流れは実に興味深い。 元来、土を成形して焼く事によって生まれる「器」は日用性を帯びることが当たり前だとされる中、彼は容れ物としての「うつわ」に自らが作家として追い求めるべきコンセプトを見出し、やがて用途を持たせずにして「うつわ」とする事を考えるに至った。 もはや「器」ではなく存在としての「うつわ」、つまりは一つ一つが佇まいを持ち、口を開け、何かを中に満たされることを期待する形の物質として。
2009年のneutron tokyoでの初個展では、彼の象徴的形状とも言える「瓶(びん)」の形をした「うつわ」達が所狭しと並べられ、大小あるいは太さや質感の違いを見せながらも、まるで五線譜に書かれた音符のように静かな韻律を奏でていた(「アンジェリコの鍵盤」)。 並べられた瓶はどれも実用に供するにはあまりにも口が狭かったり、重かったりして、やんわりとそうした目的を持つことを拒絶されるのだが、鑑賞者はそれでも「うつわ」としての存在に惹かれずにはいられなかった。 まるで一つ一つの瓶が人間のように個性豊かなものとして感じられ、そこに液体を満たすことが出来なくても、傍らに置いておきたいと思われる魅力に溢れていたのである。
続く2010年からは上述の「絵画」作品が登場し、見事な裏切りを果たす。 つまり稲富淳輔が陶芸作家であるという専らの見方を軽くいなし、自らが「うつわ」を追い求める作家であると宣言したと解しても良いだろう。 絵画は「うつわ」の肖像画であるとも理解出来る。 展示会場の壁には平面、床や台には立体としての「うつわ」が並べられる様はやはり、静かな韻律を内に秘めつつも、鑑賞者の目線を上下あるいは前後にゆさぶるようなテンポ、つまりリズムを生み出していたとも言える(「月よむ骨」、「月よむ花」)。
そして次第に彼の陶作品は口を開くようになってきた。 そう、口が開けば必然的に人はそこに何かを注ごうとする。 つまり用途性を帯びる様に変化してきたのである。 実は彼の中でも無意識の産物として、変化はみるみると「うつわ」を「器」へと導きつつ、決して当初のコンセプトを失うことなく、彼は今あらゆる容器をも否定せず、「うつわ」の可能性を掘り下げ続けている。 今回の新作個展では従来の陶作品と平面作品の対の構図を継承しつつ、新しく磁土による「うつわ」、銀筆による「うつわ」が異彩を放つであろう。
彼の生み出す「うつわ」達はどれも親しみと愛着を感じさせるものばかりであり、立体作品の表面の多くは人の皮膚のように肌理細かく、触れているだけで心地よい。 そんな素敵な「うつわ」達は、彼の思う素敵な人間、生き物全てを模した仮の姿かも知れない。 だからこそ、あなた自身もきっとここに見出される。
gallery neutron 代表 石橋圭吾 |