「 確かなエネルギー 」 小西加奈子 (平面)
2012年9月5日 (水) ~ 23日 (日) [ 会期中 9月10日, 17日 月曜閉廊 ]
「確かなエネルギー」 に寄せて
仄暗い灯りの下で時に這いつくばり、時に波に呑まれ、少女は常に画面の中で孤独である。 ただでさえトーンを極端に落として描かれる画面の明度は月光に照らされた景色のごとく、おぼろげで不確かなものでしかない。 その中で薄い衣服をまとっただけの少女(あるいは女性と言うべきか)は誰かに置き去りにされたのか、あるいは自らその環境に身を置いたのか、無言の抵抗と同時にそれらの状況を覚悟の上で存在しようとする意志すら感じさせる。
小西加奈子が描く少女(女性)の姿は、現代女性のアイコンとして消費されるアイドルグループやセレブ達とは全く異質の存在のようである。 そもそも置かれている状況においては男女の性など必要とされないかのように、対峙する相手も居らず、そこが世界のどの辺りなのかを知る術も持たず、ただそこに存在するしか無いと思わせるのだから。 しかし、だからこそ描かれるのは少女であり、女性でなくてはならないと作者は確信を持っている。 逆説的に言えば、少女あるいは女性でなければ、この状況を乗り越えて生きていくことはできないのではないか、と。
世の女性像の多くは商業的に作られたものであったり、極端にある一面を強調(あるいは矮小)されて流布されていることが多いため、実は誰もが思い悩み、壁にぶつかり、自己の存在を賭けて葛藤を繰り広げる様がメディアに乗せられることも無ければ、身近な人にもそうした姿を見せてはいけないような空気が、「何となく」この世界を覆っている。 だが小西が描こうとする状景はもっと女性特有の景色であり、おそらくは男性には直感的に分かりづらいものかも知れない。 即ち描かれている画面の世界を閉塞させている要因の主な二つのうち、一つは社会的事象や風潮に由来する空気であったとしても、もう一つはどの時代にも女性には必ず訪れる、自らの母性の認識における葛藤であり、子供を産む/産まないの両極があるにせよ、女性にしか会得できない生きる強さの本質的な発生の場が、こうした鬱屈した状況として描かれていると見るのは穿ち過ぎだろうか。 いや、もしかするともう既に、この少女(女性)達にはその強さが生まれているのかもしれない。 だとすれば、あえて自らこの状況に身を置き、荒ぶる波や孤独を受け入れ、身を引きちぎらんばかりのそれらに耐え忍んでこそ、生きて行く真の力を得ようと本能的に行動に移しているのだろうか。
そうした状況に「水」が欠かせないと考えられる理由は、作家が語る様に生命が誕生するには水の存在が不可欠だからということもあり、そもそも女性が水と大きく関係しているからとも言えよう。 潮の満ち引きは月の満ち欠けとも関係し、つまりは「母なる」地球の自転と公転による引力の差異がもたらす現象であるが、それを日々感じて生きているのが女性である。 残念ながら男性にそうした自覚はほぼ無い。 女性の生理現象はその都度思考や行動にも大きな影響を与えるし、男性よりも直感的・本能的であるとも言われることが多い。 事の真偽は別に委ねるとして、「水の惑星」地球における女性性あるいは母性とは、まさにこの世界の誕生の瞬間からずっと生命が受け継いできた究極の「生きる力」であり、「確かなエネルギー」なのだと考えることは間違いではないだろう。
そう思えば、男性のなんとか弱きことか・・・。 小西がこのように少女(女性)を描くことと対比するならば、きっと男性を描く場合は群れた集団の中で争い・競い合う姿こそ相応しいのではないだろうか。つまりは相対的な存在なのである。 ぽつりと一人で孤独の中に強さを見出せるのは、おそらく女性でしか出来ないのではないか。 飛躍するようだが、昨今のアイドルグループはそういう意味で非常に「男性的」な成り立ちをしていることにも気付くことが出来る。 言い方を変えれば、男性が意地でも守らんとする社会システム原理の中で作られた存在であるとも。 小西加奈子の描く少女像を見て、かわいそうだとか寂しいとばかり感じているようでは、きっと女性の強さには敵わない。
gallery neutron 代表 石橋圭吾 |