「 みんなからのなか 」 大槻香奈 (平面)
2012年10月17日(水) ~ 11月4日 (日) [ 会期中 10月22日, 29日 月曜閉廊 ]
「みんなからのなか」 に寄せて
大槻香奈は作家としての確かな力量に加えて、どうやら時代の予言者としての才覚も持ち合わせているようである。 作家として大槻が描く画面には必ずしも全て言語化出来るほど自分の理解が追いついていない事象も含まれており、しかしながら無意識のうちに描いた予感的事象は、数年後にピタリと填まる時期が訪れる事があると言う。 大槻に限らず人間も生物としてそうした感覚を持ち合わせていても不思議はないのだが、世の中をしっかりと観察し、その上に自身の思考を重ねて「一歩先」あるいは「半歩先」を描くことが作家の資質の一つだとすれば、それは人よりも抜きん出ていても当然である。代表例に「3.11」以前に描かれた「ときとし」という作品がある。 画面中央に浮かび上がる少女が、背景の山々や手前の街のビル群に囲まれてマッチをする瞬間。 既にその世界は崩れ去ることを前提に存在しているかのように、不穏でまとまりが無い。 小さく描かれた少女達は暢気にプールの水面を眺めているが、大きな少女は笑顔を浮かべてこの世界を「リセット」させるつもりだろうか、マッチを擦る。
この個展のタイトルは「乳白の街」と題されたが、その根底には「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」というテーマがある。 当時聞き慣れない言葉であったが、乳海攪拌はヒンドゥー教における天地創造神話の中に登場するとてもスケールの大きな話である。 神々が失いかけた力を取り戻すべく、不老不死の薬として「アムリタ」という霊薬を生み出す為に地表の海を回転させ、その緩やかで大きな動きのなかで生命が死に、新しく生まれ、やがて新しい生態系を孕む乳色の海になっていく。 神話に限らず私達の住む地球では、時に人智の及ばない規模での天変地異に翻弄され、途方に暮れてきた。 しかしそういう歴史の中でも人々は再び(何度でも)立ち上がり、乳白の海から新たな希望の芽を見出し、生きるためのエネルギーに変換する。そう考えると乳海攪拌によって生まれるアムリタは、神々のためのみならず、地上の生命にとっても不屈のエネルギーを沸き立たせる契機になっているのかも知れない。
そして今回、大槻がテーマとするのは「蛹」である。 言わずと知れた青虫が蝶に変身する途中経過としての状態であるが、実は青虫が蛹になった時、その殻の中では青虫の組織がドロドロと溶け、全く新しい組織変換を自発的に行ない、その状態で時間をかけて(熟成するかのように)時を待ち、やがて最終形態としての蝶の姿をもって、殻を破る。 神話の中の乳海攪拌は1000年間も続いたという。 一方、それに比べれば短いが一生の中では充分に長い蛹の期間を経て青虫は蝶になり、その後一週間程度で死んでしまうと言う。 同じドロドロでも蛹は生命が自発的・本能的に行なう変態である。 そしてその状態を脱する時は、既に死を覚悟した上での旅立ちであり、その短い輝きの期間に蝶としての美しさ、儚さを存分に発揮する。では彼らは何を覚悟して、その蛹の殻の中で旅立ちの支度を整えるのだろうか?
今の日本を思えば、私達が皆確固たる将来像をえがけず、右にも左にも足を踏み出せず、停滞している。安易なイエス・ノーで片付けるべき時代は過ぎ、経済効率優先の考え方を卒業し、私達はどこに向かおうとするのか。 その答えを探すモラトリアムとしての時期を、無意識的に選択し始めていると考えられよう。 それをネガティブに捉えず、むしろ今こそ私達自身の選択により蛹の中に包まれて時機を待ち、世界の本当の理想的な在り方を想うことが必要ではないだろうか。 従来の凝り固まった組織形態や思考回路を緩やかに溶かし、やがて最終形態に変異し空を羽ばたくために、前向きに「からのなか」に身を預ける。 その先にはやがて私達が本当に自分たちの力で飛び立つための、覚悟と勇気が必要とされるだろう。
大槻香奈は普遍的なモチーフとする少女達に宿る本能と理性、自覚と無意識のバランスを俯瞰的に眺め、その存在を必然的な出来事=自然現象として描くことにより、大きな母なる視座から今の世の中を見渡している。 無邪気なうちにも本能的な直感と母性を持ち、強い生命力(生存本能)を秘める少女達が夢見る世界とはどんなものだろう。 いつか蛹から羽化する時に、その世界はやってくるだろうか。
gallery neutron 代表 石橋圭吾 |