ただその一方で、大和が作品に水を取り入れたからこその興味深い展開も見受けられた。埃である。それは時間が経つにつれ水面に現れ寄り集まり、会期の終了間際にはまるで模様のように一面を覆った。
個展「泥で洗う―食卓」(gallery neutron、2008年4月22日~5月11日)で発表したインスタレーションの変奏と言える《たいらさをめぐる―塔》(ガラス・灰・砂・顔料・ほ か、2009年)は、灰や砂のイメージを肯定的に捉え直そうと試みる作品である。灰と砂の層が幾重にも積み重ねられた作品はそれらから想起されがちな不浄 さが感じられず、むしろ神聖さを漂わせていた。
この転換は、水面に漂う埃にも共通するものではないだろうか。なるほど《たいらさをめぐる―塔》は作家が意識的に作った作品であり、《たいらさをめぐる― 落影》の埃は偶然の産物に過ぎないという意見もあるかもしれない。けれどもそういった負の要素になり得る自然現象を、許容し、ポジティブなイメージに変質 させ、あたかも作品の一部であるかのように見せるのは大和ならではだと私は思う。
三階に展示された《火を投げる》のシリーズにも同様のことが言える。インクジェットプリントした写真の一部分を、対象の輪郭に忠実に切り取ることでその 存在を想起させる作品だが、火を用いているためにいびつになった輪郭が実在と不在の間に横たわる生々しさを強調している。《火を投げる―石榴》(紙・染 料、19.5×27.5cm、2009年)のそれはひと際である。もちろん度を超せば作品として成立しないが、そのせめぎ合いが作品を成立させる重要な要 素になっていることは間違いない。
おそらく大和は今後も、一見不安定な〈間〉に立ち続けるだろう。そこから生まれるものを私は見たい。