2009年3月25日(水)~4月12日(日) 1F main gallery + 2F salon
文 / 小金 沢智 (neutron tokyo) 写真 / 表 恒匡
寺島みどりによる本展は「見えていた風景‐空‐」と題されているように、「風景」、とりわけ「空」をテーマにしたものである。とは言ってもそれが一般的な 風景や空でないことは展示作品を一瞥すれば、そしてそもそも展覧会タイトルに「見えていた」と冠していることから明らかだろう。「私の絵画は風景です」と 寺島が言うように、作家は絵の具を幾層にも塗り重ねることで、自身の曖昧模糊とした記憶を再構成し新しい「風景」を立ち上がらせようと試みる。画面を縦横 無尽に行き交うストロークは、記憶がいかに抽象的で非時系列的であるかを狙ったものか。それまでの作品が画面を上下に分断したきわめて均衡のとれたもので あったことを鑑みればその変化は大きく、それは寺島言うところの「見えていた風景」を現出させようという試みにまさに適合しているかのように見える。
だがそれはあくまで論理的に考えればということである。今回の出品作品から私が見るものはほとんど、アブストラクト・ペインティングに特徴的な絵具の層 の集積であり作家の身振りとしてのストロークであり、つまり絵画的な色彩と構成の是非であり、それら以外のものではない。寺島が試みる「見えていた風景」 の創出から、私は少なくとも「風景」を想起できないのである。
たとえば一般的には匿名性の高い、しかし作家その人には親しみ深い風景を描いた絵画があるとして、私たちはそれからまさにその場所だけを想起するだろう か?もちろんそういう人もいることは否定しない。けれども一方で、「ここを私は知らないが、私の知っているあそこに似ている」と思う場合もないだろうか。 つまりたとえ具体的な風景がそこに表されているとしても、それは私たちのパーソナルな記憶を呼び起こす一助となる。
日本であれば富士山が象徴的な存在だが、あまりに記号的になりすぎている対象にそれを求めることは困難かもしれない。しかしながら私たちは具体的なオブ ジェクトがまったく排されたものではなく、一つでも具体的なものを有する画面からの方が遥かに記憶を反芻しやすい。したがって、展示室最初に掛けられた 【聞けない気持ち】
(181.8×227.3センチ、キャンバスに油彩、2009年)や二階吹き抜けの【彼が呼んだ春】(162×162センチ、キャンバスに油彩、2009 年)に認められる楕円状のストロークの集合から、人が花びらを連想し、森を想起するのは理由なきことではない。後者については植物を象徴する色である緑を 多く使っているために、より一層そう感じやすくなっている。