三尾 あづち 展「Complex world」
2009年9月16日(水)~10月4日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
岐阜県出身で木工家である父を持ち、自身は双子の姉と京都で別々の大学で美術を学んだあづち。姉のあすかは星形の模様を大きな画面に抽象的に描くアクリル 画を制作し、片やあづちは「不思議の国のアリス」を想起させるようなキャラクター達を所狭しと画面に登場させ、コラージュとペインティングを用いた絵画及 びイラストレーションを数多く生み出している。二人のユニットとしての展覧会はこれまで京都のニュートロンで2007年に最初に行って以後計4回を数える が(最近ではこの夏にneutron kyotoで開催)、個展となるとニュートロンでは初の企画となる。そもそも双子であると言うだけで無意識に共通してしまう感覚を持ちつつも、やはり個別 の作品は別物であるから、あづちにとっては自立した制作発表(ソロ活動)を行うことは自身の制作に没頭する意味で重要な企画となる。
ガールズ・アートと呼ばれる現代女子的な美術表現においては、過度な装飾やマンガから影響を受けたと思われるディフォルメやキャラクターの描き方が特徴 とされるが、何より現実世界と近しい距離を保ちながらも画面に描かれる世界観は非現実的で、空想の産物と思しき内容が多く含まれる。いつの時代にも少女は 夢想的であり独創的なのであるが、それらは単に夢見がちな(大人になりきれない)幼稚性の現れと片付けられることも少なく無い。事実、そういった作家達は 時代ごとにキラ星のごとく登場してはすぐに消えてしまう。いかに独創的であっても時代の中でしっかりと評価を受け、定着し、表現を深めていくことが難しい かを表しているとも言えよう。
三尾あづちは大学時代からほぼスタイルを変えていないが、確実にその画面における表現は進化を続けている。トランプの兵隊、猫のお化け、ソフトクリーム に骸骨・・・といったキャラクター達は何度も何度も繰り返し登場し画面を賑わせるのだが、それらはその時々において全く「既製」のものとして描かれてはい ない。あたかも初めて顔を見せるように、所在なげに現れてはまた何処へか消え、いずれまた顔を出す。絵本のような明快なストーリーの中で各自の役割を担う ことよりも、おそらくは作者の気分次第で登場する彼らは、言い換えればあづちの感情の機微やメッセージの欠片を背負って立つことを目的としている。言葉は 発せずとも皆おしゃべりそうで、画面からは元気な声が聞こえてくるようでもある。
技法はドローイング、ペインティング、コラージュ、キラキラペンによる彩色からニスによる画面全体の光沢処理に至るまで、実に何工程も経て作られている ことが見て取れる。おそらくは途中で消えてしまったイメージも少なくない。また、最後の最後に突如として現れた奴もいるだろう。ディテールを見れば実に繊 細なコントロールと偶然とが渾然一体となり、確固たる意思も見えれば奥の方に消えてなくなりそうなメッセージも隠れている。全ては同一画面の出来事とは言 え、工程における時間の変化ですら作品は内包し、つまりは全ての出来事が定まっておらず、常に動き、さまよっていることを暗示する。それは空想において本 来は個人の自由裁量で定められるはずの「世界」が、一向に定まらずあやふやで不明瞭なままであることを意味し、日々繰り返し描き続ける登場人物達の姿や出 来事は、その世界におけるほんの一部でしかないが、それでも世界を把握するための一つのきっかけであることを予感させる。だからこそ作者自身も飽きる事無 く彼らと出会い、描こうとするのであろう。
そして三尾あづちが見る「世界」とは、決して私達の住む現実世界と切り離された異次元の夢物語とは言い切れない。そもそも現実世界が存在しなければ空想 も成り立たないと考えれば、両者は密接に関係し、影響を及ぼし合うと言い切れよう。あづちの旺盛な制作は現実世界における出来事や日々の感情の変化の映し 鏡であるだろうし、一方で画面の中の世界から私達は元気や笑い、時にシリアスなメッセージさえも受け取ることが出来る。「Complex world」 … 私達の住む世界と、彼らが棲息する世界は複雑なパラレル・ワールドの一つであり、三尾あづちは唯一の自画像とも言える「myself」(2008年)で見 せたように、驚くほど冷静にどちらの世界も眺めているのが興味深い。