橋本 佳代子 展「FACE」
2009年10月7日(水)~10月25日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
目は口ほどに物を言う。例え口許は笑ってみせても、その目がぴくりとも笑っていなければ、その人の心の内に喜びや楽しさを見出すことは出来ないだろう。そ してまた、泪をいっぱいにたたえた瞳には悲嘆や無念の意識だけではなく、それが洗い流された後の希望も宿っている事を、知る必要がある。
少女マンガに脈々と受け継がれる大きい目の美少女・美少年の存在は、宝塚歌劇やバービー人形、サンリオキャラクターを経て現代の「ギャル文化」と呼ばれ る様々な女性主導のコマーシャル展開へと続き、輝く瞳の存在は常にそれらのアイデンティティーとして際立っている。今一番の旬なのであろう「キャバ嬢」の メイク、髪型、ファッションはどれも少女マンガが現実のものになったかのような、非・現実的な誇張によって成り立っており、現実の世界からの逃避にも似 た、刹那的な願望の成就を楽しんでいるようにも見えるのである。彼女達のディフォルメされた瞳がどれほど大きく見えようとも、残念ながらその目は持ち主の 人格を映し出す事はなく、後に振り返れば典型的なファッションだったと統計的なポートレートの類いに収まるかどうかの次元である。それは時代における女性 の防御姿勢の現れであり、絶滅の危機にある獰猛な肉食系男子を射止めようとする策略であるのかも知れないが、一番の目的はコスプレにも似た変身願望の実現 であり、それ以上のものでは無いと感じられる。
だとすると、ここに紹介する橋本佳代子の絵に描かれる瞳の少女は何なのか。
およそ画面の中に顔以外のパーツも存在も見当たらない、ぎょっとするほどの圧力の顔。それらを特徴づけている最たる要因は顔の半分以上を占領する目であ り、それは二つに限らず数多く存在する。そしてその瞳の中を覗けば無数の星のごとく輝きが、まさに伝統的な少女マンガのごとく、あるいはそれ以上のスケー ルで広がっている。顔が一つの天体だとすれば、そこに浮かぶ太陽系のような惑星群が密集し、それぞれに大小様々な星々があり、そこにまた生命の営みや自然 の時間の流れがあるかのように。もはや人物を特定するためのパーツを通り越し、宇宙の一端を覗かせる穴である。
だからこそ、私達はこの顔から、あるいは瞳から、母体となる少女の表情どころか心を読み解くことは極めて難しい。口許の変化で多少の表情の印象が付いて はいるものの、瞳はそれぞれ主張や遠慮を重ね重ね表現しているので、もはや単一の感情を示唆するものではない。ちなみに、一部作品には目だけでなく口が複 数描かれていたり、顔が二つ繋がっていたりするものもあるため、作家の意図として明らかに単一の存在・表情・感情・イメージとして読み解かれることを期待 していないものと考えられる。だがしかし、確かに描いているのは顔であり、そのパーツであり、歴史上受け継がれていたアイコンとしての瞳である。もし画面 いっぱいに迫る顔が作家自身を投影するフレームとしてのものであるとすれば、橋本の抱える様々な感情・意識が余す事無く混在させられた表情と捉えることも 可能だろうし、あるいはこれだけ窓を開けてみせながらも、やはり全く捉えどころの無い無表情な顔であるとも言えなく無い。つまりは、目が二つだろうと10 コだろうと、人の心を探るのは容易ではないと言う事か・・・。
近作では顔を描いたシリーズが専らであり、今回の東京での初個展も「FACE」と題されたシリーズが中心となるが、実は橋本の世界観は顔の上だけでは終 わらない。未公開のドローイングでは一角獣や寿司、植物と動物が一身化した奇天烈な生き物を描くなど、イメージの広がりは物の存在、形状など多岐に渡る。 やはりどれにも印象的な顔があり、特に目の存在は一際大きく描かれている。今回の顔の絵は作家の全貌の一端を見せるに過ぎないが、ある意味では顔は橋本の メッセージが凝縮された「世界」でもあるのだろう。美の理想としてでも、いたずらな空想の産物でもない、私達の生きる時代に確かに存在するはずの顔。はた して瞳の中に漂うのは、刹那の瞬間に生きる蛍のような人間の煌めきか、あるいは存在を具現化することなく彷徨う現代の魂か・・・。