高橋 良 展 「cosmic」
2010年1月9日(土)~1月31日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
幅6mを優に超え、ハンガリー製の独特の紙を用いて壁面いっぱいに展開された「森 -forest-」と題された大作は、2009 年の年明け早々に京都のギャラリーで登場し、いきなりの驚嘆の声を上げさせたのはまだ記憶にも新しい。
黄味がかった紙は日本製の和紙と違い、少し硬さがあって繊維の存在感も強く残るが、絵具の吸収には優れており、高橋が2006年から2007年にかけて 留学したハンガリーでの最大の収穫とも言える、格好の支持体である。しかし彼がハンガリーから持ち帰ったものは紙だけではない。いわゆる水墨画を出自とす る彼であるが、渡欧当時は画力には定評があったものの、モチーフには定番の龍や女性などが艶かしくも「日本」的に描かれており、強く他の作家と区別される ほどの際立った特徴があったとは言えなかった。そんな彼にとっての転機はまさにハンガリーでの一年間で訪れ、現地での制作発表が充実しただけでなく、帰国 後に彼の飛躍的な進化が見られることとなる。
まず、彼は墨を使う作家ではあるがもはや「水墨画」を描いてはいない。昨今の日本美術において「日本画」の定義が殊更に取り上げられ、その枠組みの崩壊 が次世代の作家の活躍とリンクしているが、高橋における「水墨画」というフレームの解体は、決して時代の潮流や美術の文脈における意図的なアンチテーゼか ら生まれたものではなく、自己の内面への忠実で真摯な洞察、一方では墨で描くという実にシンプルで奥の深い行為への果てしない欲求から来るものであり、即 ちそれを促したのがハンガリー製の紙であり、一方では西洋の死生観であったと言える。
彼はハンガリーに行く前から生と死を取り扱ってはいたのだが、やはり古典的・日本的なモチーフと、屏風や掛軸といった表具を用いての表現では「様式美」 の枠内に留まっていると見られざるを得なかった。しかし今や彼の絵に描かれているのは、どこの国の者ともつかぬ男女の裸のままの姿であり、背景となる風景 も国籍や文化の違いを超えるべく、物の存在を「情報」として認識させる以前に「象徴」として配置することを目指しており、以前の艶かしさや顔の表情の繊細 さよりも、客観的な・物質的な描き方で風景、植物、動物、そして人物全てを等しく画面の中に構成しており、鑑賞者は感情を移入するよりも、目の前に広がる 光景のパノラマに心と体を預けることにより、約束された旧来の水墨画や古典美術からは得られない、リアルで生々しい世界の一端を見る。上述の「森- forest-」は大地から生まれる生命の力強さと、大地に還る生命の果ての存在を同時に感じさせ、全裸の人物は西洋の古典絵画のごとく哲学的なポーズを とり、画面のところどころにはコラージュのようなイメージの刷り込みが行われ、画面のハイライトとも言える箇所には馬の頭部が豊かで印象的な色彩で描かれ ている。日本美術の襖絵で見たような風景の記憶と、西洋の宗教画の概念的世界観が混在したかのような画面の印象は、おそらく正しいと言えるだろう。彼の中 での混在は未だ消化しきれていないものであるとしても、そこに至る混沌と確信が見て取れる、ダイナミックな作品である事は間違い無かったのだから。
そして2010 年の年明けには、彼は東京に新たな驚きの光景を出現させる。
土や木々のむせ返るような匂いからは離れ、今度は「水」である。その中に岩が浮かび、周囲を魚が群れをなして泳ぐ。さらには海中であるにも関わらず、も の言わぬ人物像がもはや木偶の坊かと思えるほどにディテールや体温を感じさせず、単なる躯体として存在している。全ての光景はイメージの中の出来事である と示すと同時に、まるで全ての思考や存在が母なる海から生まれた事を思い出さそうとするかの様に、絵の中ではストーリーや起承転結を語らずに、謎めいた印 象が空間全体に展開される。そして色彩は限りなくモノクロームに立ち返り、墨の濃淡で表現されると言う。彼はおそらく、ハンガリーで受けた影響と自身の表 現の可能性を確信に変え、墨で紙に描くという原点に戻ることにより、以前とは違ってイメージの無限な世界を描くことが出来る様になったのだろうか。
不思議な事に、彼はこの作品の構想を森の中で思いついたという。それは案外、地球上の五つの元素から成り立つ事象が、目に見える光景だけではないはずのことを、端的に捉えた瞬間だったのかも知れない。