特別企画展 「富士山展」
2010年4月28日(水)~5月16日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
なぜ今、「富士山」なのか。実は私が一昨年から東京に居を移す様になってから気づいたのだが、東京の都心でも天気が良ければ(マンションの6階からは)富 士山がくっきりと見えるのである。ただし季節は空気の乾燥して澄んでいる秋冬が良い。春から夏にかけては都会の空気は淀み、晴れていても遠くまで見通しが 利かないのである。とにかく突然の富士山の出現に驚き、やがてその存在感に圧倒されることとなる。
東京に生まれ育った子供の頃は、実家が一軒家で背が高く無かったこともあり、まさか東京から富士山が見えるなんて想像もしていなかった。当時「サンシャ イン60」という高層ビルが池袋に出現したが、おそらくはその屋上から見る事ができたのだろうか。あるいは、東京タワーに昇れば一目瞭然だったのだろう。 しかし東京に住むとなかなか東京タワーには行かないし、恥ずかしながら富士山は自分の住む場所とは離れた地点の、誰でも知っているアイコンとしての存在で しか無かったのだ。だが実は、高いビルに昇らずとも東京のあちこちから見えるのだという。そして最近ではちょっとした「東京からの富士山」ブームが起きて いるとか…。
富士山というのは、単なる山としての物質的な存在感だけでなく、古来からの日本と現代の日本を繋ぐ象徴的・偶像的意味合いも多分に含んでいる。当たり前 のことだが、富士山は富士山として、噴火の隆起以来ずっとそこにある訳で、その間に日本、特に東京の有様は刻々と変化し、現代においては富士山を視界から 隠すほどビル群を屹立させてきた。しかしどんなに大きい人工の建物よりも、やはり富士山の存在感、広がりは圧倒的で、今更ながらそれに気づくと気になって 仕方なく感じずにはいられない。
そこでこの企画では、純粋な富士礼賛とは少し違った角度から、日本の現代都市において林立するビルの谷間に浮かび上がる富士山という存在を、今の時代に 生きる日本人としてどう見るか。あるいはその普遍的価値とは何なのか。新幹線で富士山の傍らを通る時に、携帯電話のカメラでバシャバシャ映す行為に、何が 潜んでいるのか。そんな事をさりげなく考えながらも、美術作品に富士山は昔から描かれてきた歴史もふまえ、あるいはあえて踏襲せず、力のある現代作家達が どのように表現するのかを楽しみにしたい。モチーフが富士山である以上、誰であれ、作家と富士山の対峙構造が生まれるだろうし、その勝負は潔く、個性的 で、奔放であったら良いと思う。
出展作家も豪華である。三瀬夏之介と山本太郎はともに久しぶりのニュートロン登場となるが、互いに「日本画」という概念を揺さぶることによって自己表現 を掘り下げ、それぞれVOCA 賞を受賞するなど、今や押しも押されぬ日本現代美術界の若手スターである。「富士山」は彼らにとって比較的身近なモチーフではあるだろうが、そこは一筋縄 ではいかない二人である。奇しくも同じ屏風仕立になるという彼らの技とアイデアは、見逃す訳にはいかないだろう。そして昨年から充実の制作が続く寺島みど りは、先だって京都で行われた公開制作の流れから富士をあぶり出し、希代の映像作家・林勇気はいかにも現代的なツールで富士を辿る。中比良真子は特意の鳥 瞰図で未だ見ぬ富士を見下ろし、冬耳はあくまでシンボリックに、客観的に構図を練る。年末に壁画を出現させて話題になった松岡亮は今回も二日間での現地制 作に挑み、初登場の前川多仁は幼少の記憶に宿る秘密基地としての富士をユニークな染織技法で彩る。そして森太三は、自身の足が記憶する登頂経験を基にイン スタレーションで富士の印象を出現させる。
大型連休に群れを成して昇らずとも、ここへ来れば想像上の富士登山は叶うだろう。それだけでなく、日本美術史における新たな記念碑的富士作品が現れることを期待して、私は新幹線の車窓富士を、毎度うたた寝で見過ごしてしまうのだ…。