もりや ゆき 展 「つづきを見に」
2010年7月21日(水)~8月12日(木) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
窓を堅く閉ざし、カーテンをもぴしゃりと引いて外の光線を遮断したいと思うのは、何も夜に限ったことではなく、人間の気持ち次第で何時でも起こりうること である。私は窓から外を見るのが好きで、窓の眺めが無い部屋には住めない性質であり、できれば(向かいのマンションの目を気にしないで良ければ)窓もずっ と開け放ってカーテンすら引きたくないと思うのであるが、それもおそらくは精神状態や環境次第なのであろう。あえて窓の無い部屋に住みたい人も居るらしい し、窓があっても絶対に中の様子を窺わせない住民も 最近では不自然とは言い難い。防犯の理由だけでなく、そもそも窓は内と外を不意に繋ぐチャンネルのようなものであり、どちらかの意思で(例え強引にでも) 出入りのできる侵入(あるいは逃避)経路ともなる。そんな窓だからこそ、絵画にもさかんにモチーフとして取り上げられてきた。絵画の額装そのものを「窓」 として捉える向きもあるし、全ての絵画は作家の心の窓から外界を覗いている行為に繋がるといっても過言ではない。窓は家の中(あるいは外)にあるだけでな く、人間の内外にも存在する。
視覚的に外を見渡すという意味で「窓」を引き合いに出すのは専ら絵画や写真などの平面表現に限ったことではない。昨今では段ボールなどの仮設の家(部 屋)を作ってはその内にドローイングやペイント、細かい立体作品などを配置して窓からのぞかせたり、観客を招き入れる「家型作品」も珍しくなくなってきて いる。が、よく考えればやはりそれは形式的に・視覚的に窓を取り入れているだけで、作家自身の心の窓を表すには至っていないものがほとんどである。私が知 る限り平面ではなく、インスタレーションとして窓から外を見る行為の本質を表そうとしている作家は、もりやゆきだけである。
もりやは元々、陶芸を専攻していた。京都市立芸術大学在学時及び卒業後の数年間は、陶の技法を基にしながらも作品としては彫刻的なオブジェを作ることで 知られ、次第に鑞や木材、さらには照明効果や映像までをも取り入れるように発展していく。いずれの作品/発表もほぼ全て会場の特性ありきのインスタレー ション(仮設的設営)が軸となっており、平面や立体作品の様に後々も保管したり鑑賞することは難しいものばかりである。非常に手の込んだ仕掛けを準備し観 客をあっと言わせながら、その展示は一定期間後には消滅し、その痕跡すら残すことはない。立体物を設置することにより空間を変貌させるインスタレーション とは違い、舞台演出のように空間の中へ観客を導き、ストーリーらしきものを体感させるという意味において、もりやの作品は記録写真には絶対に映らない醍醐 味がある。同時にその制作は時として会場の中に会場を作ってしまうことにも結びつきかねない。つまり観客を誘導したいという気持ちは、外界から自分の内面 の世界へ引き入れることばかりに気持ちが向き、実は外界における窓(または出入り口たる扉)であるはずの展示空間に二重の造作を設けてしまうことでもあっ た。その結果として観客の鑑賞の自由は制限され、さらに気分的にも閉塞した感覚を覚えるようになったのは否めない。
しかし近年はその閉塞感を作家自らが受容する事から次第に変化していく。インスタレーションは壁や造作で取り囲まれることなく、開放的に設置された上 で、作家の意図に依る一定の道筋だけを示すようになる。展示を鑑賞するにあたっては正しい経路を進むべきではあるのだが、仮にその光景を横から、斜めから 見ようとしたとしても、インスタレーションはそれを拒まない。神社仏閣の拝観経路のように然るべき参道が設けられていながら、時に脇で遊び、裏側を覗き、 その境内に行き渡る意識的な配慮を楽しむことにも似ている。作家の精神性が確信をもって会場に行き渡ってこそ、実は作品と呼べるものは剥き出しで鑑賞に耐 え得るものへと近づく。それは即ち、他者からの視点を一方的に限定するのではなく、作家のメッセージを外界へ放とうとする行為である。まさに「窓」をモ チーフとしたインスタレーションシリーズの延長線上に、今回の東京展がある。窓の代わりに「扉」が意図される様であるが、それはおそるおそる外を眺める段 階から作家がより確かな一歩を外に向けて始めた証でもある。
カーテンを開けて朝の光を受ける。窓を開けて空気を入れ換える。そして身支度を整えて外へ出かける。たったそれだけの、当たり前の行為に潜む実に幸福で大切な瞬間。そして日常にこそ宿る真理。-夏の日差しが差し込む空間に、静かだが確かな希望が存在するだろう。