冬の特別企画展 「Home, Sweet Home」
2010年12月8日(水)~30日(木) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
東京都南青山二丁目17-14。真っ白で真四角の一際目立った建物は、建築当時からそのような躯体を表していたのだという。とある建築設計事務所の手によ るモダンでストイックなフォルムを備えた住宅として、およそ10年程前に建てられた当時は建築雑誌の誌面を飾ったりもし、今でも一部カタログなどに当時の 面影(と言ってもほとんど変わらないのだが)を見る事が出来る。さらに、奇遇な事にこの物件の当時のオーナーであり施主である人物は、アパレルのデザイ ナーとして活躍される一方、アートのコレクターとしてここを訪れたことがある。私にとっても驚きの出会いであったが、その方も旧自宅がこのようにギャラ リーとして使われていることに喜びを感じて頂けたようであった。しかし人間の気持ちは複雑なもので、やはり自分が建てた家だからこそ、頻繁に訪れる対象と はなりにくいのだろうか。その後私はここでその方にお目にかかっていないのだが、それはなにか「家」に対する少なからぬ思いの表れのような気がして、「ま た気軽にお越し下さいね」などと声をかけた自分がちょっと恥ずかしい気もしている。ここはもう、誰の家でもなく、架空の居宅として設定されたギャラリーで しかないのだから。
一般にアートギャラリーとは季節や時間による自然環境・条件の変化をなるべく受けない様に、閉ざされた形で作るものとされ、まさか南向きの大きな窓から 自然光が差し込むことなど想定していない。それにわざわざキッチンを作ったり、ダイニングテーブルセットや応接ソファーをどんと置いたりもしないだろう。 だが私がこの物件を初めて見つけた当時(2008年2月頃)、既にモデルハウス然と仕立てられていたこの建物内にはソファーセットやリビングテーブルなど が当たり前のように置かれており、その佇まいには戸惑いよりも大きな説得力を感じたのを今でも覚えている。- 人間の住んでいた空間、そして人間が居なくなってもなお、住むことを前提に存在する空間。それは例え風呂場をタイルだけ残して事務所にしようと、ベッドや クローゼットを退けようとも、消すことの出来ない匂いのように何かが染み付いた所であり、この空間に展示する作品に対し日常という現実への歩み寄りを否が 応でも要求するのである。
それはまさに、私自身が考えるこれからの美術というものへの問いかけとも一致する。西欧的価値観に束縛され大きさや物量、広大なランドスケープを制圧す ることが良しとされ、人との関わりや自然との共存を深慮することなくエゴの塊として提示されてきた20世紀末期以降の「現代美術」達は、まるで自身が絶対 的権力と存在意義を有する王様のように振る舞い、身の回りの環境と継続的なケアを要求し続けてきた。だがそれらは日増しに私達の生活そのものから切り離さ れ、個人邸に存在する事をやめ、ごく僅かな少数の人間のために価値操作を繰り返しながら砂上の楼閣を築いた。その虚像の城には人間の営みは存在しない。だ からこそ、私が実現したいのは人間の人生・生活と切っても切り離せない美術の存在の仕方であり、どんなにそれが個人的な関わりであろうと、万人に波及する ものであろうと、誰かの執着や執念によってこそ存在し得る美術というものを、この空間で提示したいと考えているのである。
この企画展に出展する15名はおよそ全て、この一年間に京都または東京のニュートロンで発表を行い、高い評価を獲得した者達であり、その作風及び作品の 在り方が個人の人生・生活にささやかな / 大きな影響を与えると思うに足る作家ばかりである。当然のことながら作品の数は全館通じてかなりの数に上るのだが、それと同時に見て頂きたいのは、出展作 家達の自宅から持ち寄ることになる家具・什器達である。作家の人生観や思想を表す作品と、作家の一個人としての生活の傍らに存在する家具。それは各々の自 宅やアトリエでは共存して当たり前の物でありながら、こうしてその場所を切り離されて架空の家に持ち寄られた時、作品は作品として、家具は家具として、ど のような距離を測りながら存在するのだろうか・・・。
当然ながら15名のテイストやセンスがバラバラである以上、辻褄の合わない設定も多々見られることだろう。だがそれもまた、人間の生き様の一部分である と解釈して頂ければ幸いである。かく言う私も、インテリア雑誌に登場する神経の行き届いた矛盾の無い生活空間よりも、生きているからこその混濁が見え隠れ する散らかった空間の方が断然、心躍らされるものがあると感じている。