「 border 」 高橋 良(平面 / 墨彩画)
2011年1月8日(土)~1月30日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
誰にでも、踏み越えては欲しく無い領域がある。だがそれ故に踏み込んでしまう領域もまた、事実存在する。
人は自分の安全が保証されていなければ、生きて行くにあたって不安に苛まされ、積極的に一歩を踏み出すことは出来ないものだ。だからといって他人の安全 を脅かすことは法律やシステムによって禁止されているとはいえ、時にやむを得ず、また時には悪と知ってなお侵してしまうのが性(さが)であろう。とかく、 人は物理的にも精神的にも、陣地取りに力を注ぐ生き物である。
だが一方で、私達人間を取り巻く環境、それは自然であり大宇宙であるのだが、それらは例えどれほど人間があがいてみせようとも、時に圧倒的な力の差を発 揮し、結果人間を途方に暮れさせもする。人と人の間の領域こそパワーバランスが互角に働いても、やはりどうしようも無い壁は私達の身の回りに、大きくそび え立っている。その圧力を現代人は建造物の影に隠れて感じずに生きようとも試みるのだが、さりとて天変地異による大災害にでも見舞われれば、途端にその堅 牢な石垣が砂上の楼閣であったことを知る。それでもなお、人間は生きている証を見せんがため、必死の努力で自然の領域を侵すことを止めようとしない。それ はまるで、人間という生き物が侵略という行為で自己を表現し、他者を制圧することで満足を得てきた歴史の証明のように。-そしてテクノロジーの発達した現 代、侵すべき領地が地球儀の中に見出せなくなりつつある中、今や主戦場は仮想空間であるインターネット上のパラレル・ワールドに存在する。ここでは神経 戦・心理戦・実弾攻撃やテロリズムまで戦いのあらゆる手段が実行され、素知らぬ顔して暮らす地上の人々の生活を静かに脅かす-。
高橋良は水墨画を志して以後、自身の内に秘めた死生観を基に、墨の技法との相性の良い幻想的な光景を先人達に追随して描いて来た。猛獣や美女、地獄と楽 園が入れ替わり登場する図式は決して珍しいものではなかったが、ふとしたきっかけで一年間あまり遊学したハンガリーの地で、彼はその後の制作に大きく影響 する感覚を掴む。一般的に水墨画は日本や中国を始めとする仏教文化の流れを汲むものとして、東洋の美術の代表的なスタイルであるとされるのだが、彼はそこ に自分が共感した西洋の哲学や画面構成、土着の素材(ハンガリー製紙)までを持ち込み、それまでの水墨画スタイルを一気に転換して見せた。
だがその変化は、単に東洋から西洋へのスタイルの転換というレベルのものではなく、もっと作家の思想の深いところで結実し、化学反応を起こした上でのも のである。彼の本来描こうとするものが何なのか、日本の中で日本的なモチーフや技法に執着して描いていた時には見えなかった物事が、やがて彼の画面に湧き 出る様に現れることになったのは、彼自身が異なる文化・風土に触れたことによって、自分の表現に必要な要素を客観的に気付くことが出来たからに他ならな い。その結果、画面には東洋とも西洋ともつかぬ普遍的なモチーフとしての人体や景色、動物をはじめとする生命が活き活きと描かれるようになり、金泥(きん でい)によって塗り込められた画面はヨーロッパ古来の宗教画の荘厳さと、日本美術の金箔の表現を併せ持つ感覚を提示し、墨を基本としながらも自在に縦横に スクロールする作品展開は圧倒的な成長を見せた。象徴的なのが2009年1月にneutron kyotoで発表した巨大な作品「森 -forest-」(2,520×6,430mm / ハンガリー製紙に墨、膠、岩絵具、水干絵具、胡粉、顔料、カリヤス)と、続く2010年にneutron tokyoで発表した水中世界の連作「cosmic」(1,800×14,100mm / 和紙に墨、金泥、木製パネル)である。いずれも日本画や水墨画の常軌を逸した、かといって西洋画のものでもない、不思議だが安息感に満ちた思考のパノラマ を実現した。
その彼が守るべきものが、この新春の個展であきらかになろうとしている。上述の通り、侵略と暴力に脅かされ続ける私達の生活の中で、普遍的に守るべき対 象となるのは、愛する家族であり、それが住む家であり、概念上の故郷である。新作では殊更に新しい生命の予感や家の存在が提示されることになるが、それも また画家の内外から成長を促す大きな要因であろう。そして自分の愛するものを知るとき、初めて他者にとっての愛するものの存在を知るのだとすれば、彼が掲 げる境界線としての「border」は、私達人間の間に常に存在し続ける、乗り越えるべからぬ壁と言えよう。