「 Masquerade 」 酒井龍一 (平面)
2011年2月2日(水)~2月20日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
これは私の勝手な思い過ごしかも知れないが、最近の画家は「自画像」というものを描かなくなったのではないかと、ふと思う。若い世代による現代絵画は抽象 と具象の境を溶かすようにして、目新しさと技術のユニークさを競う一方、描かれる光景は(それが抽象であれ具象であれ)作家自身の内面を描く、いわゆる心 象風景と呼ばれるものが大多数ではなかろうか。壮大な光景も、ミクロの世界に入り込むような緻密な画面も、写生という古い概念(目に映る事象全てに美が発 見される可能性を否定せず、ありのままに描くこと)を踏襲せず、描く発端からして作家自身の気持ちやメッセージ、コンセプトを反映する事を前提にしている のだから、それも不思議ではない。だが絵画において対象物が何であれ、見出すべきものを先に特定して描くのは、もしかして作家による観察と洞察以前に、何 か時代の必然的な事象を見落としてしまうのではないかと、一抹の危惧を覚える。そんな昨今だからこそ、余計に「自画像」という響きが遠ざかって感じられて しまうのだ。酒井龍一はニュートロンにとっても、周囲を見渡しても珍しい、自画像を描いて発表する作家となる。
なぜそこまで「自画像」にこだわるのか-今は過剰な装飾と身体美を前面に出す時代であり、男女問わず若い世代のアイデンティティーは外面から宿るかのよ うに時間と労力をかけて化粧や服装、髪型が整えられる。そんな彼ら・彼女らはどれほど多くの時間、鏡を見る事に費やしているのだろう。その容姿は異性を誘 惑する以上にまず、自己実現・自己陶酔のためにあらゆる情報・パーツを盛り込んで形成されるので、いわば内面の発露が許される隙も与えられない。町中の 人々が皆お洒落でカッコいいとしたら、もはやその人々のアピールは全体で共有される安心感でしか無く、真の自己主張とはほど遠いものである。-そんな時代 の空気の中で呼吸し、制作を志す若者は自分というものと如何に向き合い、かつ描こうとするのか。それこそ興味深い事ではないか。
だが酒井龍一の描く「自画像」を見た時、あまりの強い印象にたじろぐ気分さえ味わうこととなる。体形や服装の雰囲気は忠実に再現されるも、肝心の顔はマ スクによって隠されており、彼が何者かという情報は、その絵が「自画像」であることを知ってのみしか理解出来ない。いや、あるいはその事を知らなくても良 いのかも知れない。なぜなら、彼の描く彼自身は、今ここに明らかにされる仮面舞踏会、つまりは私達の住む都会の虚栄の織りなす光景の参加者の一人でもあ り、私達自身でもあるからだ。凶悪な性格さえ漂わせるそのマスクは、中世貴族の優雅な世界には見られない、切実で強固な表皮として顔面に張り付いている。 他の絵を見渡しても、登場する人々は皆同じマスクで顔を隠している。いや、もはや本来の顔がどうであれ、マスクが都会に生きる人々にとって必須のものであ ると直感するほどに。それを見て思い出すのは、花粉の飛散あるいはインフルエンザの流行の度に大都会・東京で見かけるマスクの行列である。私自身の知る限 り、他の町ではこれほど一斉に、忠実にマスクをする人々は見られない。その異様なまでの強迫観念は、(無論、本来の目的があるにせよ)彼らが常に都会の中 で戦い、身を守ることに必死であることを見事に表しているかのようだ。酒井龍一がここで描くマスクが何のためのものであるのかは、作家自身が述べる言葉以 上に私達の中に答を知ることができるはずだ。
伝統的日本画の紙本着彩によって、現代を自らの体験と観察に基づき描き出す若き才能。間違い無くこの作家は、近い将来に大きな注目を浴びることになろ う。ロケーションが田舎であろうと都会であろうと、彼の身に付いた客観的でクールな視点、その内側に秘めた熱い郷愁(人間であることへのホームシックとで も言おうか)は、画面に繊細な表情と現実に見紛う奥行きを生じさせ、決して大袈裟なドラマではない私達の日常に潜む一瞬の激情を静かに描き切る。
それはまさに現代を「写生」する事によって浮かび上がる、本当の美の発見に他ならない。