「 絵の声、色の夢 」 伊吹拓(平面)
2011年9月21日(水)~10月9日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
残暑まだ醒めやらぬ九月初旬、私は伊吹拓が期間限定で制作を行っているという、京都府の南部・木津川市の鹿背山(かせやま)の麓まで馳せ参じた。彼に会う 時は事務所やギャラリーだけとは限らない。長年にわたり彼が交流をもつイタリアン・レストランでランチを食べながら(彼の絵を見ながら)…という機会も年 に一度くらいのペースで訪れるし、第一子誕生の暁に自宅兼アトリエにお邪魔したこともある。彼は関西近郊の様々な展覧会や知る人ぞ知るアートイベントにも 良く顔を出し、必然的にそういった所で出くわす事も珍しく無い。いつも風来坊のように澄ました顔でふらりと現れる彼の佇まいは、風の匂いを嗅ぎ分け、空気 の湿度を感じ、気の赴くままに旅をする異邦人のようでもある。事実、彼には土着の雰囲気といったものがあまり無い。
そんな彼が描く絵もまた、常に風のように動き、その印象は鑑賞者の心の中で定着することは無い。無論物質的には絵具はやがて固まり、一つの絵として画面 に定着しているのだが、彼の絵と対峙する時、その場所や季節、環境、誰と一緒だったか、時間は急いでいたか・そうでなかったか、等によって全く異なる印象 を持ち得る絵画だと言えよう。少し皮肉っぽく言わせてもらえれば、彼は決して自分がこう言いたいんですよ、という返答を出さない。鑑賞者が絵の前に佇む様 子を傍から眺め、何か話しかければ応じ、何も言わなければ無言で引き返す。技術的な質問には答えても、イメージそのものの在り様や作家の狙いなどと言った 質問には、返す刀で質問を投げかける。「あなたはこの絵に何を見出しますか?」と。それは意地悪な様で、彼の絵画制作の根源を成すたった一つの問いかけで もあることを、知って頂きたい。
私も随分付き合いが長くなって来たが、彼の展覧会を企画したり、絵を見る機会がある毎に彼の描く「何か」を考えてきたが、未だ答えは導き出せていない。 だがこの度、鹿背山の町工場跡地で彼が思う存分大きな画面を広げて描いている様を見たとき、少しだが新しい発見が訪れた。おそらくだが、彼の絵はどんな場 所に行こうと直接的な変化は表わさない。だから私がその時に見た絵も、それまでに見て来たものと何が違うかと言われてもあまり「これ」というものは無い。 実際に彼はずっと或る一つのテーマを描き続けていると言うのだから、変化しよう(させよう)というモチベーションは大きくないのかも知れない。だが私が 思ったのは、画面の表層の変化ではなく、画面に描かれなかった事象のことであった。彼がまだ駆け出しの頃、画面にはおよそ密度の濃い・噎せ返るような空間 が奥行きを深く意識して描かれていたものだが、やがて次第に絵の密度は和らぎ、時にうっすらと消えそうなほどにさえ拡散し、スタイルは勢い一辺倒ではなく 柔軟に、洗練されてきた。そんな彼の絵に、私がどうしても「これは無くても良いんじゃないかな」と感じていた何かちょっとした事(小さな何か)が常にあっ たのだが、ふと気付けばそれらがすーっと消えていたように見えたのである。おそらくそれはモチーフや線、色、構図と言った画面構成要素の有無ではなく、彼 の内面的な成長と、広々としたスペースを(一時的にとはいえ)手に入れた開放感によるものかも知れないし、それ以外にも理由はあるだろう。だが現時点で私 が得た手応えは、おそらく期間限定ではなく彼のこれからの制作にずっと示されるものであり、つまりは彼は(彼の絵は)同じことをしていながらずっと成長し 続け、彼自身が本質を見出すことに近づきつつあることの証明でもある。
この絵は何を描いているのか、は永遠の謎でも良いではないか。鑑賞者と絵の出会いの多くは一期一会であり、それぞれは絶えず流動的に移ろい、変化する。 だから一瞬の邂逅はお互いが生み出す奇跡の瞬間であり、人間が歳を重ねるように、絵も生まれる度に姿形を変えていくのだから、同じ瞬間は二度と起こすこと は出来ない。願わくば次はもっと素晴らしい、幸福な瞬間が訪れるのを期待するのみである。私が彼の絵を見続ける理由はそんな所にあるのかな、と分かった様 な気になり、しかし一方では死ぬまで確信できないであろうことを知っている。それはまるで、淡い恋心を抱く相手の気持ちを推し量る様であり、エクスタシー の瞬間に訪れる迷いの様でもあり、自分自身を何者かを見出せないもどかしさの様でもある。