「 内にある遥か 」 齋藤周(平面 / インスタレーション)
2011年9月21日(水)~10月9日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
北海道で教鞭をふるいながら精力的な制作と発表を10年以上にわたり続けている画家、齋藤周。言うまでもなく広大な大地と空に包まれた土地柄には、摩天楼 の中で見る景色とは全く異なる世界を感じ、表現する素地がある。しかし一方ではネット社会と呼ばれる現代の生活において、どこに居ようと、いつ何時でも同 じ仮想空間でコミュニケーションを行い、情報や価値観を共有することが可能な世の中でもある。どちらも広がりという意味では似ているが、足元の地面の広さ とモニターに映し出されるヴァーチャル世界では、体感出来るリアリティーは大きく異なる。その両者をうまく取り入れて私達の現代生活は便利さと同時代性を 約束されるのだ。
だがいくら環境が整備されようと、やはり人間が立ち得る地点は一生涯にそう多くは無い。移り住むことが無ければ特定の場所で人生を全うすることもあろう が、それをもってして「世界が狭い」と指摘することも、また感じることも、容易いが的を得てはいないだろう。そもそも人間をはじめ生物にとって「世界」と は自分が存在してこそ発見できるものであり、その手応えは自分が五感を通じて得る直接的な情報によって確かなものと認識される。従って、どれだけ詳細に地 球の反対側の彼の地の話や写真を見聞きしても、そこはまだ当人の「世界」には属さない。あるいはネット上で遠く離れた異国の友達とコミュニケーションしよ うとも、果たして本当にその相手がどこに生活し、何を見て、何を食べて、どういう背景で生きているのかを知るのは簡単では無い。「世界」とは自分が足を伸 ばして辿り着いた先に存在し得る実感のことであり、人類が長い歴史を経て編纂した地図にはその可能性が記されているに過ぎないのだ。
齋藤周が札幌という定置点で生活し、制作する事は即ち私達それぞれがどこかに居住し、仕事をし、人生のある一定の時間を過ごすことと本質的には同じであ る。土地柄は違えど、彼は決して北海道の悠然とした風景画を描くタイプの作家ではなく、むしろ何処にでも存在するであろう日常の(それはとても当たり前で 幸福な日常の)些細な瞬間の出来事の記録であり、スナップであり、時間を飛び越えて残される小さな地図でもある。公園や街の片隅で見かけた何気ない子供の 居る状景。自分が直接的に関わるのではなく、常に傍観者として、あるいは成り行きを見守る無関係の立場として切り取られたイメージは、画面の上にデフォル メされ、色彩をアレンジされ、情報の選別を経て普遍的な像として定着する。その一連の作業、制作を何と呼ぼうかとあえて考えるなら、それは私達が小学生の 頃に広場や公園に出て行った「写生」そのものに他ならない。
だが、当時の私達は風景を忠実に再現し、色を的確に選び、あるいは作り出し、上手に描くことが良い事だと信じてやまなかった。齋藤周のモチベーションが 其処には無いのは明らかであるが、彼は愚直なまでに自分の世界を知る術を「写生」に託し、年月をかけてそのスタイルを磨き上げ、画面には決して執着し過ぎ ず、さらには作品としての絵画そのものをインスタレーションのピースとして物質的に・無造作に取扱い、それら全てが自分の実感してきた世界の表れ、証拠で あることをあっけらかんと示そうとするのだ。
縦横無尽に走らされる色彩と構図の妙はこの作家ならではの柔軟さの表れでもあり、決して額の中や空間に閉じ込められない世界の有り様を見せたい気持ちの 発露でもある。そうして彼の作品展示における一つのスタイルは確立されてきた。そこには様々な描写や色や形が溢れるが、私達がふと目を留めて見入る部分は 人様々、きっと違う箇所であろう。おそらくそこは齋藤周という人物と私達が共通して気になる何かを示している所であり、人と人が表現を媒介に繋がり合う フィールド上の「接点」と呼べる場所である。齋藤周はそうして私達に常に接点を提示している。だからだろうか、彼の作品を見る時に常に感じるささやかな哀 切のような感覚は。彼の世界地図には私達との出会いが予見され、その先の別れまで予感させるかのように。