「Fragile 3」 谷口和正 (彫刻)
2011年11月23日(水・祝)~12月11日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
昨年秋の個展の記憶が強く残るまま、また今年も谷口和正が東京での展覧会を行う。今回は同じギャラリーとはいえ三階の展示空間なので、昨年見せたようなLED による光のコントロール、それにより浮かび上がる「影」の存在を打ち出すことは難しいが、作家は既にそれをふまえて新たな試みを用意しているから心強い。
その新しい要素とは、従来谷口和正の屋内展示に欠かせなかった「影」を予め作品そのものの成り立ちに含めてしまうことにより、実存と虚像の対比を一個の自立した作品の中にコンセプトとして封じ込めてしまおうとするものである。具体的には、従来の制作方法である「楽曲の歌詞から引用した言葉」を鉄の切り抜きとして抽出し、それらを組み合わせて一つの彫刻として構成し、それを展示する際にギャラリーの空間照明あるいは作品自体に内蔵されるライトによって浮かび上がるべき「文字の形の影」を、今回は予めトレースして朧な形状として抽出し、作品に取り込むという念の入った手順である。従来は直接的に判別可能であった言葉の数々が、今回の新たな手順を踏むことによって総じて不定形に変わり、それらは本来の「言葉」の意味を内包しつつも、その限定的な意味に縛られることなく新たな形状へと生まれ変わっているのである。そこにはもはや、「言葉」を超えた普遍的なメッセージであり、デザインであり、存在が生まれていると言っても良いだろう。
谷口和正にとって、これは単に展示空間の都合により生まれた副作用的なものではなく、実は根源的に彼の作品の成り立ちに対して向けられた深い試行錯誤の末の産物でもある。今までは、彼の作り上げる彫刻としての形に辿り着く前に、鑑賞者は目に飛び込んでくる言葉の形(世界共通言語である英語を用いるため、判別も容易い)に先にとらわれ、結果としてそのフレーズの意味にイメージを引っ張られ過ぎる傾向もあった。もちろん、本来形状を持たない「言葉」が彼独特の鉄という硬質な素材によって形を持たされ、それが浮遊感を持って浮かび上がる様はそれだけで充分な意味を持つのだが、やはりどうであれ「言葉」の持つ力は大きい。おそらく彼の新しい試みの本当の目的は、その「言葉」の力を嫌と言う程思い知ったからこその挑戦であり、「言葉」に形を持たせた上でさらに「言葉」の本質を探ろうとする意欲的なチャレンジでもあろう。
先日、奈良のあちこちで開催されたアートイベント「はならぁと(HANARART)」において、古くからの酒造店の中庭に面する座敷と縁側に彫刻作品を展示したのを見た。伝統的な和のしつらいとの対比も面白かったが、一番見応えを感じたのは、中庭から時折吹いてくる爽やかなそよ風や、人が作品の傍を行き来する際に発生する微風によって、鉄の彫刻がゆらゆらとゆっくり動き、草原の木々のように有機的な存在感を放っていたことである。展示していた作品が植物をモチーフにした形状であったことも、功を奏した結果であるが、「揺れ」は今まで彼の作品を見続けてきた私にとっても新しい発見であった。まさに、彼の扱う軟鉄はしなやかさと、表現力を備えている素材である。そして言うまでもなく、鉄を含む「硬い」と思われがちな鉱物資源は全て地球誕生から今に至るまで長い年月をかけて生成されてきた凝固物質であり、化石であり、地球という生命体を構成する生きた成分なのである。だからこそ谷口和正が火花を散らして硬質な鉄と格闘し作品を成形する行為は、私達人間が絶滅するまで止める事は無いであろう、地球資源を用いた「生産」の原始的な姿そのものであり、作品は「消費」されることはなくても生きている限り確かに「存在」し、やがて本当に人類が消え去った後に再び地中に呑み込まれ、人類の存在した証となるであろう「言葉」とともに地球体内に戻る。そんな事までも感じることが出来たのだ。
3.11 を経て揺れ続ける、私達の生きるこの時代。何が確かな存在なのかすら疑われるこの時において、彼の制作の持つ意味は大きい。彼の作品が東京の三階の一室で揺れ動くのは、人々の行き交う瞬間だけではないだろう。今この瞬間にも、あらゆる物事は動き、生きている。硬いと思われるものも、柔らかいとされるものも、その本質は実に危うく、脆く、奇跡的な出来事の集まりでしかないのである。