「彼は荒野にオードブルを配膳する」 行 千草 (平面)
2011年11月2日(水)~11月20日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
同会期に開催する渡辺おさむに負けず劣らず、注目して頂きたい作家が行千草である。渡辺と同じくスイーツをモチーフに描く事が多い作家だが、実はそれ以外にも多様な存在を地球のあちこちに点在させて描くことで知られる、異色の画家である。
スイーツと言えばマカロンやモンブラン、アイスクリーム等が今までの絵の中にも登場していたが、甘味だけでなくスパゲティやお寿司、お肉類から魚介類に 至るまで、あらゆる食べ物が主役である。一方、それらと同じ雰囲気を持ちながら寄り添う様に描かれるのは、ダルメシアンや縞馬、虎などの動物達。一見する と何の因果関係も見出せないそれぞれは、行が設定する広大な世界の一隅で、なぜか風景に溶け込む様に穏やかに共存して描かれる。いや、描かれる以前にあた かもそれが当たり前の光景であるかのような、説得力すら感じてしまう。それらの背景となる広大な風景は時に海辺であったり、砂漠であったり、どことも知れ ぬ密林だったりするのだが、人間の存在は全くと言って良い程感じさせず、しかし誰かによって調理されたはずの存在がそこかしこに点在することから、この世 界を形成する神のような存在として、人間が設定されているとも捉えることが出来る。- そしてここで、今回のタイトルに意味する「彼」とは誰なのかを考えて頂きたい。
芸術家に限らず、人間は時に予知能力を発揮する生き物である。それが形にして現されるのは、何らかの表現や記録を残す者に限られる。私が行千草の最近の 制作記録に改めて目を通していた際に驚かざるを得なかったのは、彼女は昨年の12月にneutron tokyoで発表した小品に、何とスパゲッティーの渦に呑み込まれる街の景色を描いている(「ジェノベーゼ」)。そして同時に、高台に昇って途方に暮れポ ツンと佇む親子も(「洗濯・親子・バゲット」)。これを見て3.11 を連想しない人は日本に居ないだろう。だがもちろん、これが描かれたのは昨年の秋から冬にかけてである。それに気付いてさらに遡ると、同年3月に大阪で行 われた個展で発表した作品「バームクーヘン・大地・縞馬」に、竜巻のような“ うねり”を起こさんとする大地が描かれているではないか(ただしその他の作品は「昼寝」をテーマに、実に穏やかで平和な光景が描かれている)。・・・さら に遡って同年1月、新年早々にneutron kyoto(京都)で発表された大作群の中で、一際目を引く表題作「晴れ・伊勢海老・虎」及び「お節料理2010」では、何と波打ち際にタイトル通りの食 べ物が散在し、空は晴れ渡っているがつい先ほどまで台風か津波でも襲ったかのような光景なのだ - 。
私は何も、無理矢理震災に関連づけてこの作家を紹介したいのでは無い。当然の事として、震災後に描かれた作品には意図的に災厄の存在がはっきりと描かれ ている。だが重要なのは、行千草の作品を見た時に、誰もが知る食べ物や動物が描かれる様を見て楽しい気持ちになる反面、どこか消し去り難い違和感(それは シュールな絵画であることを差し引いても残るもの)と不穏な空気を感じることである。コーヒー豆などを納める麻袋を連想すれば分かりやすい「ドンゴロス」 に絵具がぽってりと乗ることによって生じる、明らかな屈折と事象の不確かさもまた、ファンタジーでは片付けられない何かを残している。震災があったからこ そ私達はそれを予感させる光景に目を向けるが、実は行が今まで描いてきたのは全て何かの予感・予兆であり、言葉では説明のつかない漠然とした不安や不透明 さそのものだったのではないかと、思わずにはいられない。だが、いかにも平穏の象徴とも言えるダルメシアンとクロカンブッシュの丸々としたシルエットの連 なりを見れば、誰もが微笑ましい気持ちを覚えるだろう。それはあたかも、見通しの利かない世界に向けて歩む上で絶対的に必要なもの-例えば愛のようなもの -を象徴しているかのようだ。
描かれる動物は全て迷彩柄を備え、あるいは擬態によって世界と一体になる。 食べ物もまた自然の摂理のごとく、景色と同化する。 果たしてそれは誰の仕業なのか?