「東北画は可能か?」 (グループ展)
2012年1月11日 (水) ~ 29日 (日) [会期中 1月16日, 23日 月曜閉廊]
「東北画は可能か?(日本画は可能か?)」この問いは、日本における東北という辺境(世界における日本という辺境)において、その地域名、国名を冠にした絵画の成立の可能性を探る試みであり、地産地消的アートマーケット、東アジアへの展開までを視野に入れた挑戦になる予定で2009年11月に、私が勤務する東北芸術工科大学のチュートリアル活動としてスタートした。またそれは「日本」「東北」と一括りにされた風土、価値観の投影に対するローカル地域からの逆襲でもあり、一つの言葉ではけっして括れない様々なグラデーションを辿りつつ、全国から集まったメンバーそれぞれの制作動機を探す旅でもあった。
東北画といってもそれは旧来の日本画のように画材や制度に規定されるものではない。日本の東北という私たちが縁あって「今」住む「ここ」という場所の歴史的な成り立ち、それと自身の関係性を読み解き、他者に向けて表現すべき必然性のある素材、技法を再選択していた。つまり東北画の「東北」には様々なものが代入される可能性があり、将来的にどこに住もうが、何が起きようが力強くものを生み出していって欲しいという私からの願いでもあった。
昨年(2010年)の11月には気仙沼にあるリアスアーク美術館での展示が決まっていて「アーク(方舟)」をテーマに学生10名の共同制作の準備を進めていた。次代に向けて何を乗せ、何を置いていくのかというディスカッションからエスキース制作、支持体の下地処理を終え、さぁ描き始めよう!というまさにその日3月11日14時46分、あの地震に東北は襲われた。
気仙沼の惨状はここに書くまでもなく、被害の少なかった山形の大学でも絵を描く状況ではない日々が続いた。メンバーたちも被災した実家へ戻る者、ボランティア活動に向かう者など、「つらい」「苦しい」という言葉は禁句となり重苦しい時間が流れ続けた。そんな中、東北という冠を持った美大の、東北という冠を掲げた東北画が何も表現しなくていいのか?という気持ちが膨らんでいった。
状況的に只中では相手を相対的に捉え表現に結びつけることは難しい。しかしこの整理しきれない気持ちをしっかりとトレースし、次代に残していくことそのものが方舟的行為であったし、なによりみんな不安と忙しさの中、根源的に描きたかった。自己治癒としての描画と社会へ向けた他者表現の間を激しく行き来しつつ、僕たちは今日も画面に向かっている。
正直なところ、明るい未来はまだ遠そうだ。そう、東北画はまったくもって不可能かもしれない。
でもやるんだよ。
今回のneutron tokyo での展示ではチュートリアルメンバーから6名をピックアップして紹介したい。
「東北画は可能か?」という問いには収まりきらない、彼らの真摯な表現を目撃してほしい。
2011年11月 三瀬 夏之介