「 Tangent point 0 」 鮫島ゆい (平面)
2012年2月22日 (水) ~ 3月11日 (日) [ 会期中 2月27日, 3月5日 月曜閉廊 ]
「Tangent point 0」 に寄せて
デジタル技術無しに日常生活を送れなくなりつつある現代、私達はいかに不便な物事を見つけて、そこに価値を見出そうと(再発見するという意味で)する事に自分達の思想・哲学あるいは美学と言ったものを反映させる。だとすると、先鋭的なクリエイティブの現場以外には、一般的にデジタルの領域にはその意識が向いていないのだろうか。いや、もはやそうしたアナログ/デジタルの境界すら融解し、線引き出来なくなって来ている事を踏まえれば、視覚で認識できるあらゆる事象の区別はもはや、実像(リアル)と仮像(ヴァーチャル)の対比では語り尽くすことの出来ない次元に持ち出されている。それを私達が何気なく判別出来る時代はやがて過ぎ去り、いつか感情までをもインプット/アウトプット出来る世の中が訪れるかもしれない。
そんな事を考えるほど、次々と新しい世代の美術作家の問題意識は時代をフォローし、あるいは追い抜こうとしている。ここに初めて紹介する鮫島ゆいは、およそ従来の美術領域では的を得ない、横断的な問題意識を持ち、表現の発端は極めてパーソナルな感情と思考に存在する。
一見すると「抽象画」と片付けてしまわれそうな画面は、確かに今現在巷でもてはやされている似たり寄ったりのつまらぬ「具象」あるいは「写実」絵画と比べれば希有なものにも映るだろう。だが具象に対しての抽象の復権などという、つまらない命題は鮫島に課されるべきではない。もはや今の世において「具象」「抽象」の別は「アナログ」「デジタル」の対比にも似て、どちらも共存する事が認められ、かつどちらも最終的には人間に必要とされるかどうかに依存している。絵画において「写実」が殊更に求められる昨今の風潮は、その前の数多のイージーペインティングが飛ぶ様に売れたアートバブルの反動と言えるだろうし、歴史を見えればそうした針の振り子は関東平野の日々の地震計の揺れのごとくである。鮫島を見るには、その絵画スタイルよりももっと本質的な表現の軸をどこに見出すかが鍵となり、それは意外にも出身大学の専攻が「版画」領域であったことに隠されていると、私は感じている。
今の時代は版画には厳しい。設備に莫大な投資とスペースを必要とし、デジタルの簡易技術がどんどん進化するこの頃は、シルクスクリーンを続けられずに他の技法に転向する作家も多い。木版・銅版などの工房も次第に減りつつあり、継承者の問題にも直面しつつある。ましてや絵画作家のエディションを版画で起こす時代は過ぎ、今やデジタルの版画技術(ジークレーなど)が主流となりつつある。作品の複製や加工において、面倒な出費も複雑な技術を覚える必要も、無くなりつつあるのだ。
だがしかし、「版画」とは技術だけの事を言い表すのではない。「版」は像の複製による重なりを意味し、まさに今私達が使っているパソコンの画像・イラストレーション編集ソフトに登場した「レイヤー」という概念の基礎でもある。日本画の世界では琳派が同じモチーフを繰り返し用いることで、絵画面に「版」の思想を持ち込んだ事でも知られる。ましてや印刷技術や写真、アニーションなど、複製可能な技法を全て含めれば、今の時代に最も影響力を誇っている技法であり思考が「版」であると言っても差し支えないだろう。まさに「版」こそ人間の表現において長い年月をかけて洗練されてきたアイデアであり、ツールである。
そしてその歴史の先端に、しかしまだ人知れず佇んでいるのが鮫島である。この作家の用いる「版」は、決して技法的なものではなく、分かりやすいモチーフの連続でもない。雲の様な図案は比較的良く見受けられるが、その姿形は感情の起伏のように変化しつづけ、むしろ同じものとして扱われるべきではない。自身が延べる様に、純粋な表現の発露としての画面を客観的に見せるための「デザイン」の要素として、強引に画面を横切る線などの描写も見受けられる。それは私達に明らかな違和感を与えると同時に、まるで作家の思考の重なり(レイヤー)を垣間みる気持ちにもなるだろう。
不穏な空気が漂いながら、時に雲の隙間から覗く晴れやかな陽光のように差し込むイメージ。そうした不断の印象の変化と重層的な画面によって、今後この作家の表現はどんどん発展していくだろう。まだここに見えるのは、そのほんの入り口の光景にしか過ぎない。
gallery neutron 代表 石橋圭吾 |