伊吹 拓 展 「導音」
2009年8月26日(水)~9月13日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
兵庫県・元町の「DELLA-PACE」での展示を見に行った時のこと。いつもながらに作家の朴訥とした語りと作品に囲まれて心地よく過ごし、いざ去ろうと言う段になって伊吹はこう言った。「石橋さん、実は僕はずっと同じものを描き続けているんですよ。」・・・
これには少なからずショックを受けた。彼との付き合いは決して短くないし、今までに見てきた作品の量も彼と奥さんの次に多いくらいだと自負していたか ら、まさか今になってそのような告白をされようとは思ってもいなかったし、私は彼が「同じものを描き続けている」とは感じてこなかったからである。
「同じもの」とは何なのか。その日からずっとそれが頭から離れない。おそらくは「物体」では無いのであろう。山とか花とか、そんな確固たる存在ではな く、もっと抽象的な何か。もしかして精神性の現れかもしれないし、人とか出来事の記憶や印象といったものかもしれない。だが遂に今に至るまで、分からない でいる。
しかしここで彼のステートメントに、またしても衝撃の事実が書かれている(笑)。言葉を慎重に選び、一言一句の重みを噛み締める彼にしては最大限の「こ とば」が、書き連ねられている。誰が言ったか知らないが、伊吹拓の絵画は音階で言えば「シ」だのと、他人の名言まで添えられている・・・どうした伊吹 拓??よもや言葉によってしか伝えられない領域があるとでも悟ったのか。
もちろん、それは違う。彼は絵を描く事で人と言葉を交わすことが好きなだけであり、自分の絵が日常の様々なシーンに(さりげなく)登場し、チラッと存在 感を発揮し、それがきっかけとなって会話が始まったり、食事が美味しいと感じたり、部屋が居心地良いと思えたり。そんな事を期待しているのだ。事実、彼は ギャラリーと呼ばれる何もない空間の中だけでなく、レストランなど人の集う場所に展示する事を好む。京都のneutron ではギャラリーでの展示回数よりもカフェの壁面に飾った回数の方が多いくらいである。前回の個展では著名なパーカッショニストを招いてのライブイベントも 開催し、彼自身もライブペイントをやってみせ、打楽器のリズムと彼のキャンバスの上のメロディーは観客を酔わせて止まなかった。彼の作品は音階でいう 「シ」なのだとすれば、料理で言えばミントやバジルなどのハーブだろうか。決してそれだけで味わうというよりも、素材の味を引き立たせ、一皿の印象をぐっ と引き締めたり、柔らかく変化させる。無くても素材は食えるが、有った方が絶対に良い。「味付け」というよりも「味を引き出す」のが香草の力であり、伊吹 作品に置き換えてみれば彼の絵が架けられているのとそうでないのとでは、ある空間・時間に存在する人間の味気(あじけ)が変わると言えよう。
そもそも、彼の絵は最初から人間と触れ合うことを目的として描かれている。作家の手元からは離れるが、誰かが目の前に現れなければ、自立しているとは言 えないのかもしれない。物理的にはキャンバスにオイルペイントという代物には違いないが、その存在感は時に液体の様で、時に気体の様でもある。画面の上に 起こる出来事は一瞬の様相を呈し、常に変化して見えながら、永遠のものでもある。昨日見た絵を今日もう一度見て、全く同じ印象を持つ事はおそらくない。明 日も明後日も、常に印象は変化するだろう。期待すればゆらりとかわされ、遠ざかると近くに来いと誘っている美しい未知の女性の様でもある。幾層にも重なる のであろう画面のほんの眼前の出来事しか見せられていないと感じるとき、彼の(ある一つの事象を描くという)ひたすらな追求を思えば、途方に暮れてしまい そうな感覚も生じる。「心象風景」などと言うのは誤りである。なぜならそれは作家の勝手な感情に依るものであり、伊吹の絵は常に向き合う相手を探し、人と 人との間(ま)に存在することを欲し、絵画という古典的ながらも未だ新しい試みをぶつけられる形態を信じ、ついには作品が存在したことによって実現し得る 出来事を喜ぶのだから、作家自身にも描いた光景の行き着く先は想像出来ても予測はつかない。
「この絵は石橋さんが好きだと思って、見て欲しかったんです。」・・・とさらりと言える絵描きはそう居ないのではないか。そこに描かれている形状も線も 色も初めて見るものであり、特に私が好きな(定まった)要素は見受けられない。しかし気になる。好きかもしれない。うん、きっと好きだ、これ。
彼は絵を描く。ただそれだけの事で、言葉が寄り添い、音楽が鳴り響き、笑みがこぼれ、拍手が起こる。人生の瞬間的な幸福が、彼の絵の近くで生まれることを願って。