廣瀬 育子 展 「piercing liquid」
2010年4月7日(水)~25日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
生まれ育った京都とカメラマンとしての道を歩み始めた東京と、それぞれのフィールドを交錯させながら時代の空気を熱量を伴って映し出した前回、2003年 の初個展。作家にとっては実に7年ぶりとなる二度目の個展となる今回は、人や情報や物量において圧倒的な東京の中で磨かれた撮影スキルと、様々な要素が混 在する都市の中で被写体と背景を見出す眼力の洗練という二つの要素が、新たな魅力として加味された。
初個展となった当時(「Japan」 / neutron B1 gallery(2003))から、既に廣瀬の写真はスクエア(正方形)に定まっていた。写真を少しでも撮る者なら分かるが、元来人間の視野は横に広がっ ており、また一般的なフィルムも横長に映る様に出来ているため(それがデジカメでも比率は変わらない)、眼で捉えるものを真四角に切り取るという作業は意 外に難しい。天地左右において均等な意識を及ばせながら、確実なトリミングの技術が撮影時に求められるからだ。そして縦横の比率が異なる通常の切り口と違 い、スクエアの構図にはモチーフを真正面から見定めるスタンスが、必然的に求められる。つまり安易に斜に構えるような写し方では写真として成り立たず、ご まかしが効かないのも特徴である。廣瀬育子は早くから自分の視野を真四角に閉ざすことにより、ある意味では世の中における写真表現の流行スタイルや議論か ら自身を遠ざけ、不器用なまでに世の中に真っすぐ向かい合うことに徹して来たとも言える。
一方では、彼女の真四角の画面には必ずと言って良い程にパースペクティブ(遠近法による構図)が取り入れられ、現代建築を写せば非常にモダンに見せ、人 物を撮る上でも独特のニュアンスを醸し出すことに成功してきた。「Japan」では被写体としてホームレスや在日外国人、繁華街に立つ水商売風の女性など を選び、その存在感が際立っていた面があるが、良く見ればその背景となる雑居ビルの階段、地下鉄の駅、路地の奥行きに既にパースペクティブが発見できる。 そして近年は風景に対する立ち位置はもっと奥へと引き下がり、やがて現在に至るまで真四角の中の構図表現は深みと円熟を増してきている。
「Japan」の時に見られた都会の猥雑さや人物のエネルギーは、最近は少し影を潜めている感がある。それは撮影場所と興味の変化によるものが大きいと 思われるが、廣瀬自身がその変化に対し自然に順応し、かつ撮影スタンスはぶれることなく確信を得ながら確立されてきた点で、この写真家の実直な姿勢が感じ られる。あくまでロケーションやモチーフは「この日本のどこか」として提示されるものであり、土地や事物による束縛からは遠ざかっているようでもある。そ の結果、今回の個展で見せられるシリーズにおいてはランドスケープこそが主役であり、もはや建築も自然も人物も俯瞰された一要素として存在し、感情移入す るには極めて距離が開いて感じられる。それに対し鑑賞者である私達は、きっと写されている事象に必要以上に情報を求めることなく、ただ「この日本のどこ か」の光景を客観的に見据え、その世界における私達自身の存在を頼りなくも確固としたものに感じるのではないだろうか。
今回の個展では上述のランドスケープと共に、ガラスを砕いて現出する景色のシリーズも初めて見せられる。廣瀬曰く、ガラスは固形物としてではなく液体と して(通常は固体にあるべき結晶構造(原子の並び方)が無いために液体と考えることもできるらしい)あるものであって、それが偶然に割られた地点のパース ペクティブは、廣瀬がずっと写してきたランドスケープ=この世の有り様と同じく成立しているように見えるのが、実に興味深い。翻って見れば私達人間も、こ の地上に流れる液体としての分子構造に過ぎず、大きなランドスケープを構成する要素の一つでしかないと言う事か。あるいはもっと前向きに、私達個々がこの 世界を美しく雄大なランドスケープとして成立させていると、思う事もできようか。