金 理有 展 「八面六臂」
2010年6月30日(水)~7月18日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
講談社の出版する「週刊モーニング」誌上で異色の漫画が人気を集めている。その名を「へうげもの」(ひょうげもの、と発音する)と言う(著者:山田芳 裕)。戦国時代の人間ドラマや甲冑装束などが人気を集める昨今ではあるが、この漫画の主人公・古田織部(ふるたおりべ)は織田信長や豊臣秀吉に仕えた武将 でありながら、茶の湯と物欲に魂を奪われた変わり者でもあった。そんな彼が後に豊臣家筆頭茶頭となり、「一見のみで腹よじれる器」の作製を目指し朝鮮に密 航、歪んだ器を考案したのが俗にいう「織部焼」の始まりである。文武両道どころか完全に美の世界へ傾倒した彼を、歴史物語の上で知る機会は少なくても、 脈々とそのDNAを受け継いだ若者達が漫画「へうげもの」の登場によって集うこととなり、今や各地で展覧会を開催しては好評を博している。ちなみに「へう げ」とは「へうげる(ひょうげる)」の事を指し(漢字では「剽げる」と書く)、「ふざける」「おどける」などを意味する。織田信長が「うつけもの」「かぶ きもの」であったならば古田織部こそは「へうげもの」であり、単なる珍奇な趣味に留まらず美術文化をこよなく愛し、目新しいものを集め漁っていた姿はまさ に、現代美術のコレクターさながらではないか。
さて、そんな織部のDNAを受け継ぎつつ、同時に韓国人のDNAを半分受け継ぐ金理有は、筋金入りの「へうげもの」だと言っても差し支えないだろう。今 時の若者然とする彼の姿を見ただけではとても陶芸を志す作家には見えないが、その探究心と技術、何より古田織部もびっくりの造形アイデアは一見して忘れる ことは出来ない、強烈なメッセージとアイデンティティーを誇っている。彼は「へうげもの」展の主要メンバーの一人でありながら、同時に日本の若手陶芸の 雄・青木良太の率いる新しい陶芸グループ「イケヤン☆」の構成員でもある。そのいずれにも属しながら際立った存在感を発揮する金は、もう既に日本の次世代 陶芸作家の最右翼としてのポジションを確立してしまったかのように、八面六臂の活躍を見せているのである。
彼の個性的な試みは大学時代から高く注目を集め、縄文土器と近未来のオブジェをミックスしたかのようなフォルム、釉薬と温度による発色を極端に強調する スタイルは他の追随を許さぬ独自の境地へと突き進んでいる。土から生まれる陶という素材が陶芸家の手に依って次第に変貌を遂げ、ある時は祭事に祭られる神 器となり、ある時は日常の食卓で使われる食器となり、時代を経る事によってそれらの両極の間にも様々なオブジェが生まれては分かれ、もはや陶芸に未開の領 域は無いのでは・・・と浅はかな考えを持ったことを恥ずかしく思うほど、金理有の生み出す作品には陶芸の歴史と革新性を背負って立とうとする意気込みと、 時代へ痛烈にカウンターパンチを喰らわそうとする熱いハートが刻まれている。その熱の根底にあるのはきっと、「怒り」である。
金理有は何に怒っているのか。何のために沸騰しているのか。
怒りや熱気を自発的なものとするならば、当然その要因は自己と他者の摩擦に依るものである。一般にその場合は全体における自己に対する評価が不当に低 かったり、存在意義を認められないことに起因する。だが金理有を語る場合はそのような二元論ではなく、あえて三元論をもってすることにより、うっすらとそ の姿が見えて来るのではないだろうか。-すなわち、新しいものと古いものと自分。美術と工芸と自分。日常(ケ)と祭事(ハレ)と自分。男と女と自分。「へ うげもの」と「イケヤン☆」と自分。日本と韓国と自分。父と母と自分。そして未来と過去と自分。-彼は隔たるどちらにも「属していない」。それらの三角関 係は、自分を除く両者の存在が大きければ大きい程、彼の位置する地点の摩擦熱を高め、必然的に自分が「なにするものぞ」という自己探求へ強く駆り立てる。 彼の怒りはアクシデントやミスによって小さな物事へ当たることではなく、自分という小さな人間にはもしかして超えられないかもしれない高い双璧を睨んで勇 ましく吠える心の叫びであり、自らを奮い立たせる為の感情の発露である。真っ黒焦げのオブジェ達はその熱量の高さを見せ、ギロリと見開かれた眼は底知れぬ 深さと強さをもって、彼の目指す地点の頂きを真っすぐに見据えている。
銀座INAX・ガレリアセラミカと時期を同じくして開催される今個展は、初めて実用性のある器を発表した昨年の個展以後、より洗練と革新性を強める制作の充実ぶりを示すものになるだろう。