「 - KITSCH - 」 前川多仁(染織)
2011年2月23日(水)~3月13日(日) [ 会期終了 ]
作品ステートメント / 展示概要
ろう染め、スクリーンプリント、インクジェットプリント、コンピュータジャカード織りなどの技術を取り入れ、手仕事とコンピュータテクノロジーを用いた機械による技法を複合させる染織作品などを展開。
キッチュをキーワードに研究し、現代美術における染織工芸の可能性を探る。おもにマンガ・アニメ・特撮・ゲーム・音楽などのサブカルチャーから多くの影響を受ける。
制 作 テ ー マ 「 キ ッ チ ュ 」 に つ い て
ヒーローと神 ~キッチュをめぐって~
私は派手なもの、きらびやかなもの、つまりキッチュなものに魅かれてやまない。
キッチュは一般に俗悪や低俗とされるように、大衆の下等な芸術にみられる要素として扱われてきた。しかし、祭事に使われる道具や衣裳、寺社仏閣や神仏像の 装飾などにみられるように、キッチュは人々の願いや欲望を詰め込み、強烈なエネルギーを放つ。キッチュは人々の満たされない現実に対して「肥大化するイ メージ」を現実のものとして表現したものであると言える。現実とはどうしても、常に何らかのかたちで幾分かは満たされないものである。他方、イメージには 限界がなく、人々の憧れ抱くイメージは膨張しつづける。そうした「肥大化するイメージ」へ向かって形成されるキッチュは、究極的には万能の力を示す表現と なり、人を超越した存在、すなわち神の代替となる。それゆえにキッチュは呪術性を帯び、人力を超えたエネルギーを放つ。
私は染織という布を媒体にした表現方法をとる。染織は工芸とされる分野で培われてきた。工芸とは、かつては生活に根ざした芸術であり、大衆芸術に深くかか わる芸術である。その点において、工芸とキッチュは切り離すことはできないが、私が染織という表現方法をとるのは、それだけが理由ではない。
私が表現媒体の主体とするものは、あくまで布である。布はそれ自体だけでは自立することも困難で、繊細で軟弱きわまりない。油絵のような厚みすらない。一 見すると、私が求めるキッチュの強いエネルギーと相反するものの ようにも思える。しかし、キッチュが向かう「肥大化するイメージ」は満たされない現実と表裏一体に存在する。
満たされない思いが強くなれば、「肥大化するイメージ」もいっそう膨張する関係にある。私にとって布の繊細さや軟弱さは、現実の弱い自分自身の鏡のように 思えてならない。その弱さを孕むことにより、反作用のように布に詰め込まれた欲望や願望のエネルギーは増強されるのである。そして、一枚の薄く軟弱な布に 描かれた弱さを孕むヒーローは、弱者という同類への親和性によって、私自身と重なり合う。
近代産業と情報化が進展する現代社会において、モノと情報が溢れ、人々はキッチュから逃れがたく生活している。ポストモダン以降、「大きな物語」が機能し にくくなり、宗教もかつてのような絶対的な機能を失った。しかし、私たちは、心のよりどころにする神をも失ってしまったのだろうか。否、もちろん失っては いない。むしろ、キッチュが溢れる消費社会に野放図にあらわれるサブカルチャーの中で神は増殖しつつある。例えば、ギャル文化では、カリスマモデルは彼女 たちの神のような存在であり、そのモデルが持っているものを、まるで御守のように自身も同じく携帯する。このように神はサブカルチャーの中で受け継がれ、 私たちはテレビヒーローにも神をみるようになる。
人は、神を人間に憑依させるために仮面という道具をつかった。仮面をつける時、大袈裟なキッチュともいえる儀式が行われ、人々はキッチュのもつ呪術性に よって「肥大化するイメージ」の世界へ引き込まれ、さらにそのイメージの世界から表出した、仮面をかぶった人を、それ自身のキッチュな風体をも加え、人と してではなく神そのものとしてみた。同様にテレビヒーローも大袈裟なキッチュとしかいいようのない変身という儀式を介し、それ自身の風体も加え、人間を超 越した存在になる。そのヒーローは完全無欠な正義の味方であり、あらゆる危機から私たちを救ってくれる。つまり、私たちはヒーローをいつの間にか神格化し ているのである。そうしてヒーローはますますキッチュ化し、私たちは、ヒーローに神を、サブカルチャーに神話をみようとしているのではないか。
私が作品を制作することは、キッチュの呪術性のもとヒーローの勇士を神像として昇華することに他ならない。