「 Stars on the ground 」 中比良真子 (平面)
2011年2月2日(水)~2月20日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
団塊ジュニア世代で最も人口の多い時に生まれた私の歳から以後、子供達の遊び方は急激に変化し、ファミコンからプレイステーション、Wii までの一連の家庭用ゲーム機の流れは日本の子供達の多くを室内に引き留まらせ、携帯やメールの流行はさらに外出の不便を感じさせ、思えばここ三十年近くの 間に随分、私達の身の回りは窮屈な理想郷に囲まれてしまったものだと思う。今の子供達の中にももちろん、海や山や川に出かけて真っ黒になるまで遊ぶ奴らは いるだろう。しかし自然相手に能動的に遊びを見つけて体感することと、モニターや小さな画面に向かい受動的に(誰かが考えた「感動」をインストールまたは ダウンロードして)遊ばされるのでは、当然のことだが脳に働きかける情報の多さも強さも異なる。多くの情報を受け取らなければ脳は発達しないし、人に対し て感情や考えを伝える術も育たない。雄大な自然に囲まれなくとも、ちょっとした身近な自然や人間の感情、機微に対して目を向けることは、昆虫観察や素潜り をする行為と同様に重要だと思うのだが、その視点を確実に持ってどんな些細な心の揺れ動きも忘れる事無く、内面の情操と外界への表現を実現するものこそ、 まさしく「作家」と呼ばれる素地を持つ人達なのであろう。
中比良真子は繊細で弱い女性である。それは今に生きる多くの同性代の女性と変わらない。あるいは男女の別なく、世代も超えて、私達現代人が抱えるジレン マやコンプレックス、夢や願望と言った点でも、おそらく特筆すべきものは無いと言って良いのではないか。それはとても平凡な存在に思えるが、私達の世界は 多くの平凡と退屈の上に成り立っており、それは自然界の摂理とも何ら違いはない。平凡の中にこそ見えるささやかな違い(個性)があり、退屈だからこそ目先 の・あるいは遠くの目標に向かって進むことができるのだ。もしこの世が本当の理想郷であり楽園であったなら、そこに住む私達は死ぬ程退屈を感じ、生きる意 味すら見失うであろう。真の喜びとは苦しみや悲しみの上に見出されるものであり、安易に提供されるサービスや身勝手の中には存在しない。この世界の地表が コンクリートで全て覆い尽くされたとしても、それが故に人間が感受性を失うのではない。どこであろうと人が住む世界に何かを見出そうとすれば必ず、そこに 幸福の光が灯るであろう-発明家によって、愛する家族によって、あるいは画家によって。団地や新興住宅地の均質な風景もまた、日本の情緒となる。伊坂幸太 郎の書く小説のように、あるいはポロシャツに眼鏡の「普通の」少年達が歌うロックのように、ドラマは大掛かりな特殊効果に彩られることなく、南の島や辺境 の地に行くまでもなく、私達の身の回りに確かに潜んでいる。ただしそれらは私達の視覚に溢れる過剰な情報の中に埋没しがちであるため、注意深く見ようとす る覚悟と視力(あるいは洞察力)こそが求められる。
油彩をベースにモノトーンの風景を描く中比良の画面には、そうやって丁寧に観察した結果抽出されたものだけが描かれており、意図的に削ぎ落とされた情報 は表れない。だからこれらは中比良真子の視線であり、同じ世界を見る私達それぞれによって、何か別の発見があるという可能性も否定しない。小さな体だから こそ鳥のように高いところを自由に飛んで、世界を俯瞰したいという願望は絵に表される一方、人として同じ目線で見る光景には平凡に潜む微細な誤差が反映さ れ、特別でないからこそ大切であると言う事を平凡から少しだけ逸脱した絵画によって感じることが出来る。今回の個展はまず、昨年秋に京都で行われた同名個 展からさらに作品を増やし、当たり前の地上の夜の光景に静かなる安息と郷愁を感じさせる表題シリーズと、そのクローズアップとして一つ一つの窓が描かれる 「On the way home」という連作によって主題が構成される。青白い蛍光灯の「地上の星」は、私達自身の生きている証である。そして一方、太陽の光に照らし出された 真っ白な背景を基に描かれる従来の中比良得意の作風の中から、2006年当時から続く「bird eyes」のシリーズが夜景と対を成す様に見せられる。その名の通り鳥の目線で描かれた風景には、夜には見られない物事の姿がホワイトアウトした画面の中 に抽出する形で印象的に描かれる。いずれにしても光ある所に景色が浮かび上がる点では共通し、明暗それぞれに分かれた地球上の、私達の住む世界のありのま まの美しさとリアリティーを感じさせる事だろう。