「 Phantom hides upstairs 」 松井 沙都子(平面)
2011年6月29日(水)~7月17日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
まさに時代はこの作家の登場を、必然をもって迎え入れようとしているのではないだろうか。松井沙都子のneutron tokyoでの個展はちょうど一年ぶりとなるが、その間に世の中が激変したことは言うまでもない。無論それは3.11の前後でのことであるが、今この時点 で私達が受け入れざるを得ない状況は、それ以前の虚飾と過剰に満ち溢れた世の中の化けの皮が見事に剥がれ、その大きな傷口から本当の21世紀の姿を垣間み ているところであると言えようか。
文明の発達によって、最も進化したと思われる視覚表現において、商業利用されるイメージ(写真や映像を主とし、昨今ではデジタルメディアによって拡散・ 増幅するもの)の氾濫は「事の真偽」を疑う視点を当たり前のものと位置づけ、本当にオリジナルであると確証出来るものは少ない。いわんや美術表現において もその影響は大きく、インターネット普及後の表現は必ずと言って良い程、バーチャルとリアル(あるいは虚像と実像)の比較の中で生まれ、語られて来た。ア ナログとデジタルの
比較も同じ意味を持つだろう。両者は大きな針の振り子の両端のような関係に位置し、いずれに振り切れようとも、もう片方の端を持たずして成立しなくなった。
まさにその時代の潮流の中で制作を続けて来た松井沙都子は、しかしながらどちらか一端に傾倒することなく、独自の思考で平面表現を模索してきた作家であ る。年代によって技法や質感こそ異なるも、大きな視野における目標地点は真っすぐに変わらぬ位置に置いている。それは即ち、絵画でも版画でもなく、あるい はグラフィックでもデザインでもなく、「何か」にならぬ像(ヴィジョン)をそのものとして提示することにある。その行為をあえてカテゴライズするならば、 哲学的思考の具現化としての「美術」としか言い様が無いのだが、おそらく作家は「美術」という地点に置かれ続けることも居心地悪く感じるだろうから、言葉 に置き換えようとする行為もいささか無意味であると感じずにはいられない。
鑑賞者が手応えを感じたと思った次の瞬間には作家の意図は別の次元に向いている。また、答えを得たと思ったその時に、新たな疑問が生じている。松井沙都 子の表現においては確かなこととして断定することは危険であり、予定調和など訪れるはずもない。おそらくは実作品をその目で注意深く観察した者だけが気付 く違和感や驚きが隠されており、それは見事に印刷やウェブ上の画面には現れないものなのだ。そういう意味で、作家は周到に自分の表現の存在を打ち立ててい る。そしてその杭が打たれている場所は、世の中のあらゆる目的から微妙に外れた、用途性の無い数少ない隙間(VOID)であり、人はそこに立ち入ることに 対しすっかり怠慢と怖れを抱くのみとなってしまった場所である。
激しい揺れと津波、そして今なお悩ましい放射能に晒された私達の目に映るのは、もはやそれまで美辞麗句や粉飾決算に彩られた世の中の虚ろな姿ではない。 多大な犠牲と未来への負担を強いられた私達は、同時に物事の本当の姿、存在意義を見抜くことができつつある。衣食住を代表とする必需品とは別に、人間が愛 してやまない文化もまた、今回を機に脱皮を果たしていかねばならない。もはや予定・約束された感動や賛美は要らない。今この時に、私達の目に鋭く訴えか け、何かを残そうとするものこそ、未来への指針となるだろう。松井沙都子の探し求め続ける「Ghost」「mimic」あるいは「Phantom」達は、 その姿形を変えようとも、常に私達の生活の傍らに存在する。ある時は壁のシミのように、またある時は天井裏の気配のように。虚実を問う前にまず私達がしな ければならないのは、視覚情報に頼り切って騙され易くなった私達本来の野生的感覚を思い起こすことであろう。画面に潜む何かは、そう簡単には見抜くことは できないのだから。