「 僕には光が見えはじめている 」 石川文子(写真)
2011年8月27日(水)~9月18日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
先日、あるお酒の席で日頃お世話になっている方とお話した際、ふと話題に上った写真と絵画の違いについて、非常に明確でシンプルな言葉を頂戴した。その方 のお仕事は美術関係なのだが、個人的にも写真愛好家だと言う事で、私の「写真と絵画は成立のスピードの違いなのではないでしょうか(写真は瞬時に感光して 成立するが、絵画は長い時間をかけて描かれる)」 との問いに対し彼は、「いや、詰まるところ写真は“ 光”が印画紙に定着することであって、それ以上のなにものでもない」「 それに対し絵画は物質であり、(あくまで人間が能動的に生み出す産物である...)」と答えた。
なるほど、そこまでシンプルに考えてしまえば迷うことも無い。少しは写真をかじった事のある私だが、どれだけ知識があろうと無かろうと、フィルムだろう がデジタルだろうが、写真は光が存在しなければ絶対に成立しないことは瞭然である。無論、絵画だって何だって、人間が知覚する光が存在しなければ作られる ことは無いだろうが、写真は一次的なもの(光との瞬時の関係)であり、絵画は二次的な産物であると考えることが出来る。
そんな話の流れの基になったのは、ここに紹介する石川文子という写真家の久しぶりの個展を開催するという事がきっかけであった。彼女は遡ること5年前、 2006年当時にneutron(京都)での個展以後しばらくご無沙汰であったが、一度のスランプを経て再び目の前に表れた本人の印象も写真のそれも、以 前と変わらず、むしろ芯の強さを増していたのを思い出す。そして今回は作家にとっても待望の東京でのギャラリー個展ということになり、新作を携えてやって 来る。
石川文子のステートメントにも、偶然にも上述の某氏の意見と同様のことが書かれているのが興味深い。
もともと繊細な光の印象を留める写真家であるのだが、良くも悪くもコンセプト重視の現代美術において、「気になるものを撮ってます」というスタンスは評価 の対象になりにくいのも事実である。だからといって、取って付けた様なコンセプトを書いてみても、やはり原始的な欲求に従って映される景色に対し言葉は後 付けとなる。つまるところ石川が一時停滞した理由も、そうした「作品」としての成立の仕方をどこに求めるかという悩みにあったのだろう。次第に獲得したモ チベーションは、「光を留める」ことに尽きると言う事であったのだから、まさにそれは写真の原点であり、絵画や他の制作メディアとの決定的な違いであり (動く映像は除く)、写真家が写真を撮る最初にして唯一の理由であったと言っても過言ではないだろう。
淡く霧がかった様な優しい景色は、この世のものでありながら、どこか彼岸のそれを連想させなくもない。
だがフィルムに映し込まれた光の粒子一粒一粒は間違いなく現実にそこに存在したものであり、カメラを構えた地点に集約された光の束である。まるで霞を掬う ようなふんわりとした手つきを連想すれば、石川文子の写真が少し近くに感じられるだろう。田舎の夜空に浮かぶ満天の星空を見上げたとき、夏の水辺に蛍の灯 を見つけたとき、人はそれに対し思わず手を差し伸ばして、何かを求めたくなる生き物である。
花火も夜景も名勝地の絶景も、あるいは身近な大切な人の姿形も、全ては光の成せる業である限り、石川文子に限らず人がカメラを構える理由は本能的に存在し続けるだろう。
私自身、カメラを携えていた時に一番好きだった季節が夏の終わりである。次第に澄んで行く空の上に、台風一過の晴れやかな青と白が織りなす光景は、思わず涙が浮かぶほどに愛おしく感じられたものだった。
石川文子の写真を見て、そんな事を思い出す。