「 タ ワ ー 」 小倉正志(平面)
2011年8月27日(水)~9月18日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
2009年に私のセレクションで、京都と東京の二会場での作品展(画業を網羅する代表作による構成だった)を開催した小倉正志が、2010年初頭の京都で の新作展以来久しぶりに大規模な新作展を開催する。その間の制作は当然ながらリーマンショック以後の世界の動向を見やりながらのものであったが、なぜこの タイミングにまで待たすことになったかと言えば、もちろん「9.11」からちょうど10年が経過する頃を見定めてのものである。
小倉の掲げるテーマは一貫して変わらない。私達が生きる「都市」の印象をその時代時代において正確に・そして大胆に掴み取り、キャンバスにその表情を描 き切る。延べ15 年にもわたるその作業は、作家としての制作の変遷を知ると同時に、時代における都市の移り変わりを感じられるドキュメンタリー性も孕んでおり、彼が新作に 投影する風景は今この時代の空気を如実に反映したものである。インターネットの普及によって一年一昔と感じられる現在において、15年という月日は決して 短期間の出来事として見過ごす事はできないだろう。むしろこの間にこそ、人類の築き上げる文明の象徴である「都市」の姿は刻々と猛スピードで変化し、衰退 と隆盛を各地で見せながら、地球という限られた星に必死でしがみつきながら懸命に生きる人間の姿そのものを現してきた言えよう。
作家の言葉を借りるまでもなく、「9.11」はそれまでの世界の在り方を一変させた。超大国アメリカの権威と国力を失墜させる契機となっただけでなく、 現代都市の神話性を打ち砕き、かつ人類の永遠の課題とも言える宗教と文化の違いの問題を世界中の人の心に深く刻むこととなった。それまでどちらかと言えば 情熱的で狂騒的な都市の姿を描くことの多かった小倉の作品にも多大な影響を与え、以後の作品では都市の多様な側面を描くようになってゆく。晴れやかなパ レードのような状景は影を潜め、寡黙に林立する高層ビルの存在が際立つようになり、次第に人間の存在はうっすらとしたものになってゆく。色彩においても強 烈なコントラストと筆圧が、次第に穏やかで内省的なものへと変化する。歴史の上では2001年の9月11日に記される出来事は、今なお私達の世界の上に 重々しい見えないカーテンをかけているようである。
だが人類は未だ自然に対する挑戦(威信をかけた戦い)を止めようとはしない。特に西洋の神話の時代から継承されてきた「高みを目指す」行為、即ち高層建 築は中東やアジアに舞台を移しながら本質的な競争(狂騒)の原理を変えてはいない。そして見守る私達もまた、懲りずに打ち立てられるそれらの現代彫刻を眺 めることに飽きず、天空に近づくことが幸福への近道だと信じるかのようである。
今回の発表作品は2009 年から今年にかけて制作されたものだが、その主題となっているのは「塔」である。身近なところでは東京の新旧シンボルタワーを想起させるが、日本に限らず 世界各地で「塔」は愛され続ける。本来の目的は主に電波を飛ばすためのものであるのだから味気なくも感じられるが、その存在は電波より遥かに遠くまで影響 を及ぼし、都市の主役となる。だが、小倉の新作にもはや都市そのものの猥雑さや混沌が見られない様に、現代の塔は地上から遥か上へと進出することにより、 周囲に対し崇高なまでの突出感を与えている。その突端を描こうとすればこのように、私達の住む下界は描かれないことになるのだ。
「3.11」による新たな天変地異に瀕してもなお私達は、東京タワーやスカイツリーに対し富士山さながらの畏敬と愛着の念を持ち、高さへの信仰を捨て 去っていない。旧約聖書のバベルの塔は、人間が空に届かんとする様を見て神が天罰を与えたとされる。その際に神は(人間は原初、同じ言語を持っていたとさ れ)言語をバラバラにすることにより人間達を散り散りに住まわせた。だとしたら、私達が天を目指す行為は災厄を招く愚かな行為なのか、それとも異文化を再 び集約して理想の高みを実現せんとする、永遠の戦いなのか。