「 乳白の街 」 大槻香奈 (平面)
2011年10月12日(水)~10月30日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
4月1日(金)から三日間、東京の表参道「SPIRAL」にて開催されたアートフェア「行商」に、大槻香奈は出展していた。そもそも同時期に毎年恒例の 「アートフェア東京」があるはずで、そのサテライトイベントとしての位置づけであった同企画は、しかしながら震災の発生以後の様々な影響により単独開催と なり、震災後の初の大規模アートイベントとして諮らずしも注目を集めることとなる。主催者の意向で全売上の10%をチャリティーとする効果もあってか、心 配された集客と売上は予想を超え、アートの下に集う人々の熱量と、これほどの有事に瀕しなお余震と停電の続く中での盛り上がりには、異様なものを感じたの を記憶している。きっと他の分野・業界ではほとんどのイベントが自粛になったであろう。それらのほとんどは現実的な開催の可否よりも、社会的な体面をもっ てして判断されていた。アートはそんな社会の中で明らかに異彩を放ち、大槻香奈の周囲の高揚はその会場の中でも一際宗教的であると感じられた。
まさに、アートは(あるいは美術は)根源的に宗教とは切っても切れない縁を持ち続けている。近現代においてはその関わりは形式的なもの、精神性ばかりを 打ち出す閉鎖的なもの、あるいはもちろん特定の宗教のために作られるものが「宗教的」とされ、人々に直接的に熱狂と陶酔を与えるものとは切り離されてき た。しかし音楽も舞台芸術も、そしてアートも、発端は集団陶酔であり、魂の救済と五穀豊穣を祈る祭事であり、動物としての人間の本能に直接的に働きかける 強烈な刺激であったはずである。そういう意味ではまさに、大槻香奈の作品には本来的・宗教的な力が多分に宿っているのは動かし難い事実である。
大槻香奈を見ていると、たった数年の間に私が予想した以上にシャーマンとしての力を身に着け、社会への影響力を膨らましているのを肌で感じる。誤解の無 い様に言い添えるが、決して呪術をやっている訳でも、秘密結社を結成している訳でもない。彼女はただひたすらに絵を描いているだけである。だがその一方で は、いわゆる「ソーシャルネットワーク」と呼ばれるインターネットを媒介としたコミュニケーションツール・システムを積極的に活用し、自身の作品表現や メッセージを不特定多数の人々に向けて発し続け、その反響は同世代の作家の中でも群を抜く大きさである。そしてその両者は多くの若き作家達にとっては無視 出来ない関係にあり、上手く活用すれば雪だるま式に自分の周囲が形成されていくが、そうならなければ全く機能せず自分の存在と情報は社会と切り離されてし まう(かのように切迫して感じられる)。
ニュースやメディアで「今時の」と形容されるそれらソーシャルネットワーク(SNS)と、いつの時代も流行と社会現象の寵児で有り続ける「女子高生」。この二つを巧みに取り入れているから大槻香奈は売れるのだ、という見方は、全く正しく無い。
私の知る限り、この早熟で才覚溢れる作家はまだ本当の可能性の、ほんの一端しか示していない。大槻香奈は商業イラストレーションの分野でまず花開いた が、そのスタートラインにおいては「絵はうまいけどオリジナリティーの無い人だなあ」という印象しか持てなかった。しかし卓越した技術と社会的考察は次第 に大槻香奈本来の目指す方向性を見出させ、自らを投影させたばかりかあらゆる生命の母性を司る化身(自然現象=自然神としての女子高生)、すなわち現在の 少女像を生み出した。大槻香奈が数年前にイラストレーションから完全に離れたアートワーク(美術作品)を作りたいと私に言った時、彼女は既に自分の生み出 すものがいかに社会的に重要で見逃せず、あるいは見過ごしてはならないものであるかを知っていたのだろう。その予感はやがて今に至るまでの短い間に「覚 醒」へと変わり、絵画としての作品の成長は目を見はるものがある。そして何より、この揺れ動く社会に向けるまっすぐで力強い眼がある。
これほど若くて、そして弱さの中に強固な意思を秘めた作家は、描かれる少女の母でもある。だがそれぞれはまだ幼く、脆くもある。そのアンバランスが人々を熱狂させ、執着させる。古い価値観が崩れ落ちた先に見える「乳白の街」から、今まさにモンスターが産声を上げる。