「 乳白の街 」 大槻香奈 (平面)
2011年10月12日(水)~10月30日(日) [ 会期終了 ]
作品ステートメント / 展示概要
「 乳 白 の 街 」
3.11以降、答えを人に頼る事はそれまでよりも難しくなったと感じている。 それは、様々な自然現象において「私はどう学ぶか」という事をいちばんに問われているという事でもある。 いつでも自然現象の上に社会現象がある。自然現象によって失ってしまったものを取り戻す為に、また、そこから前進していく為に、私たちは自身の手によって 社会を創造し直していく必要がある。個展を開催するにあたり、最初に考えたことはそれだった。
絵画を受け身で描くべきではない、自分から積極的に創造し発信していかなければという想いから、今回の制作ははじまった。
「何故少女を描くのか?」という事については私の公式Web のプロフィールを参照していただくとして、以下、今回の個展タイトルとテーマに辿り着いたキーワードについて書きたい。
私が今回個展をするにあたって一番に頭を悩ませていたのが、私は何に希望を見出して絵を描くかという事であった。 答えの出せなかったある時、ぼんやりと「乳白ガラス」から差し込む白い光から、乳白色に染まる街を思い浮かべた。
「乳白ガラス」とは、ガラス中に屈折率の異なる結晶微粒子を懸濁させて不透明にしたもので、例えばこれを窓ガラスとして部屋に設置すると、 外からの風景の揺らぎに関わらず、光そのものだけを均一に部屋の中に拡散する事が出来るというものである。私はなんとなく、理想的な希望のイメージをそこ に重ね合わせて見ていた。それは、オゾン層や大気・雲を介すことで太陽の光が「皆を(私達を)等しく照らしてくれる」ような現象に近いと感じたからだ。
しかし、乳白ガラスは自然物ではない。自分たちが創造し、選択をしてきたことで、人はそのやわらかな光を手に入れる事が出来た。 つまり希望とは「見出すものではなく創りだすものである」という捉え方で、そういった思いで作品制作に向かわねばと心を新たにした。
3.11の震災が起きた時、電話やメールがつながらない中で、ソーシャルネットが世の中をつないでいた。TV局はUSTなどネットのツールで情報を公開 し、人々も各種SNSを通じて情報を共有し合った。 太陽の光のような自然現象的なものではなく、それが人々の創りだした乳白の世界のように感じた。 白というのは私にとって魂を連想させる色だ。形のない確かなものが混ざり合っているイメージ。私はそこから「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」というヒン ドゥー教の天地創造神話を連想した。
こうして「乳白ガラス」から「ソーシャルネット」を連想し「乳海攪拌」へとたどり着いた。 ここで少し、その神話の大まかなストーリーを紹介したい。
阿修羅(アシュラ)が天に侵攻し、神々の世は脅威にさらされた。
それを防ぐ為に、力を手に入れる必要のあるビシュヌ神は、不老不死の霊薬” アムリタ” をつくろうとした。
しかしアムリタは神々だけではつくれず、半分渡す事を約束に阿修羅に手伝わせた。こうして神々と阿修羅の共同作業で1000年をかけ、アムリタを創る事となった。
「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」というアムリタの製作工程で起こる振動と熱や火と猛毒により、世界は汚染され山の生き物は焼かれ海におちていった。
海中の生き物も多くが死に絶えた。そして、ビシュヌ神が海に投げ入れた種子や植物、海に落ちた生き物などの全てが混ぜ合わされ、紆余曲折を経て海は乳白色になり、あらゆるものが生まれていった。
様々な神や女神が次々に乳海の中から現れ、最後に天界の医師ダスヴァンタリがアムリタの入った壺を持って現れた。
その後、アムリタの奪い合いとなり神々と阿修羅の戦いがまた始まる。
最終的にアムリタを飲み不死となった神々が勝利をおさめ、アムリタを安全な貯蔵庫に移した。 阿修羅は神々に焼き尽くされたという。
不老不死の霊薬であるアムリタの製作工程の事を「乳海攪拌(にゅうかいかくはん)」という。 ソーシャルネットから乳海攪拌を連想したのは、ただ単に「ソーシャルネット=乳白の世界=乳海撹拌のあらゆる生と死が混ざり合っているイメージ。」という 抽象的なものに過ぎない。また「3.11」での、震災ですべてが飲み込まれていくニュース映像での記憶と、乳海攪拌のイメージがリンクした部分もあるのか もしれない。 だが私は、その神話と、私たちの生きる現代にすごく近い「何か」を感じた。
その「何か」とは、私は神話の中に潜む「希望の中にある不条理」ではないかと感じた。 核兵器を含む軍事力によって、世の中の拮抗が保たれているという事。食肉を確保する為に、家畜という制度で多くの生命が人工的に奪われている事。 その他、私たちが豊かに生きる為に必要な” アムリタ” の為に犠牲になっているあらゆる事。 乳海撹拌の話の中では、アムリタを出現させるためにたくさん滅びゆくものがあった。半分渡すという阿修羅との約束も果たされぬままだ。
世の中の為にと人々が団結し大きな力を手に入れ、しかし、それによって新たな欲や確執が生まれ争いを生み続ける。人類はずっと、同じ事を繰り返している。 それは本能的に、本質的に変わらないものだと思う。 その中で、人々は人々をつなぐ手段としてソーシャルネットを生み出した。あらゆる情報が共有され、見えなかったものが見え、伝えたい事を伝えられる時代に なってきた。それは1つの希望だと思う。
人々が創りだしたソーシャルネットという希望。くりかえされる新陳代謝の中、自然現象として社会現象が成り立っている
以上、その希望もいつか崩壊する日が来るかもしれない。 その時がきても、私たちはきっと「それでも」希望を持ち、信じ、思考し、体験し続ける事しかできない。 私が絵を描くとき、人が「それでも」希望を持ち続ける事を恐れない心を思い出すような絵画であって欲しいと願っている。
私は今まで、「世の中に起こる様々な事象を見つめ、それらを心に抱く存在」そんな「概念としての母」を、絵の中の少女を通じて描こうとしてきた。 3.11の震災や、その中でのソーシャルネットという希望。そしていつかまた起こるであろう希望の崩壊。いつ何が起ころうと、母だけは物事をまっすぐ見つ め、それらを抱え、見守っていてくれる。今回改めて、そんな概念としての母を絵に込めたいと強く感じた。また、どんな状況にあろうとも、いつかの「死」ま で我々は「今の世界を(存分に)生きる」事をきっと許されているという事も。
2011.08 大槻香奈