大和 由佳 展 「存在の満ち欠け」
2009年2月7日(土)~3月1日(日) [ 会期終了 ]
ギャラリーニュートロン代表 石橋 圭吾
大和由佳の制作は、つまるところ自己身体表現なのかも知れない。無論、それはダンスやパフォーマンスといった事を指すのではなく、私達が人間として日々感 じる痛みやぬくもり、優しさや寄る辺無さなどと言った、本来なら心の動きであるものが、しかしながら皮膚感覚として生じることに由来する。一人の人間とし て大和の探る、一人間としての在り方は、現代に生きる私達全てに当てはまる切実な問題の上に生じる問いかけとなり、作家としての大和由佳はそれを忽然と・ 劇的にインスタレーションで指し示す。その様は実に根源的でミニマルでありながら、一方で洗練され、優美でもある。
愛知で生まれ東京で制作を志し、京都で育み、そして今は再び東京に居を構えてものを考え・作る彼女。常に制作の意識は自身の弱さと向き合うことから始ま り、やがてそれは自分の周りに存在する他者との接点を探す旅路に出る。ある時は自分と言う人間が地上に存在している(立っている)という「当たり前の」こ とすら疑い、地面が本当に平らで、自分が垂直かどうかを真剣に考察する。菱形という形状を好んで用いるが、それは自己や他者のもつそれぞれの領域として菱 形を捉え、連なる様子が美しいからだと言う。
2004年の個展「晴れ間を眠る」(neutron・京都)が忘れられない。当時鉄板を敷いた無機質な展示空間に、花あるいは小さな木の実を連想させる 形状の白い粒が無数に撒かれ、大きな円形を象る中、一片の三角錐が上空から吊られ、地面ギリギリに接するかどうかのところで静止している。その緊張感は永 遠の様でもあり、一方で早く地面に触れることを望んでいるようにも見える。そしてもし三角錐が地面に一度触れたとき、小さな白い粒は一斉に化学変化を起こ すかのごとく、劇的な変化を見せる様でもある。大和の語る「着地」という謎めいたキーワードの一端がここで発表されたのだが、まだその当時それを解読出来 たものは少ないであろう。そして2009 年、大和は生まれて来てから二回目の着地を(それは何度となく繰り返される、二回目である)再び試みる。
3階建てのneutron tokyo の全てを使った大規模な展示となる今回、特に一階のメインギャラリーでは存分にインスタレーションを展開させる。そこには実、水、地面といった大和由佳の 考察における三元素がクローズアップされ、垂直と水平の関係を見せながら「着地」に至る様が静かに再現される。「実」は私達自身となぞらえる事が出来ると すれば、そこに当たる光とそれによって生じる影は、まるでそれぞれの人生を表すかの様に、千差万別・多種多様である。
「存在の満ち欠け」と言うタイトルが示唆するように、私達人間、あるいは人間が認識する全ての事象は、その見方や角度によって変化し、存在の仕方は一通 りではない。絶対的な質量を数字で表すことは可能でも、それは実感を伴った存在とイコールではない。私達が実感するのは、五感や時にそれを超えた感覚で認 知する出来事であり、事象である。満月が完璧な姿だと思う人もいれば、欠けている月を綺麗だと言う人もある。あるいは新月で全く見えない状態であっても、 質量としての月は確かにそこに存在する。満ち欠けは潮のリズムとも関係し、女性ならば特に体調も変化する。一通りではない、不変ではないからこそ、存在が 際立ち、強く実感出来ることもあるのかも知れない。だとすると、私達は満ちても欠けても真の安堵を得る事はなく、次の周期を待ちながら、それとは別の何か の訪れを常に期待する生き物なのだろうか。あるいはまた、絶対という静止した状態よりも、曖昧に変化する相対的なものごとの方が、実は私達の存在の映し鏡 であるのだろうか。
そのような事を思いながら、次第に上の階へと導かれて行く時、きっと鑑賞者の心の檻は静かに外され、やがてそこに水が流れていくように感じることだろ う。大和由佳の作品に出会った時、私達の普段の一日にそうやって幸福なアクセントが生まれることとなる。